2010年11月10日水曜日

最近のつぶやきから、2

朝、校庭で子供たちが、持久走の練習をしている。
自分も小学校の時、柔道を始めた。
道場は、バスで40分かかった。知り合いは誰もいなかったが、続けた。

最初のころ、緊張感や孤独感を感じた。
どういうわけか、慣れていった。スキルなど、なにもなかった。
よわっちかった自分が、あれから少し変わった。

はじめての人たちと出会うなじみない場所で、感じる緊張や孤独、独特のクオリアがあった。
その後の人生で、進学、職場、留学、部署移動、同じ感覚を度々味わう。
自分によって立つ感覚、とでもいおうか。

その時々に、なぜかスポーツがあった。
決して、運動神経は良くない。自信がつくほど、何かにうちこんでもいない。
そして競技は一人ではできないし、一人きりでやってもあまり楽しくもない。
結局は、自分の身体、技術、内面、に拠るしかない。
なんだか、人生につながる。

軟弱な自分は、一つスポーツを続けたことがあまりないが、スキーや陸上、ダイビング、ゴルフ、いろいろと体験し、楽しんだ。
軟弱な自分を知るには、最高の「遊び」だが、自らを知るという危険な機会でもあったのは確かだ。
軟弱らしく、生きていこうという、そんな感覚。

ホモ・ルーディエンス、遊ぶ存在としての、ヒト。
スポーツにも、自己達成、仕事、勝負だけでない、文化としての「遊び」がある。
茂木健一郎氏の言う、偶有の危険、そして可能性かもしれない。

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