2011年1月12日水曜日

過去コラムより、ふたたび―世相について

世相について (2004)

最近の日本は、世相が悪い。経済は低迷し、奇妙な犯罪も多く、人々のモラルも崩れている。いわば、世知辛い世の中になったわけである。
そもそも相とは、顔つきや姿、発する言葉の調子に、内面がにじみ出たあり様を意味する。目に見えるもの、ときに見えない内面も含め、いわゆる行動全般を指すのである。精神科医は、患者の相を拝見し、病気や問題を探る。今のところ、血液検査や画像検査では明らかな所見が見つからないだけに、相を見ることは大変重要な手段である。口では「大丈夫、何ともない」という場合でも、患者の相を診ることで、隠れている問題を予測し、それに基づいて援助を行う。
科学的にいうと、相とは人間個人の生体のしくみや働きが反映されたものである。大きな欠陥や異常がある場合、大変な様子は相にあらわれる。例えば意識障害などの昏睡や、苦痛、苦悶などである。生体を構成する臓器や細胞、脳のネットワークが機能不全に陥ると、かすかなものから明らかなものまで相に変化が出る。たとえば、顔色が悪くなる、落ち込んだ様子になる、いらいら落ち着かない、妙にはしゃいでいる、などの変化である。ある相が継続していて、その人に特有のサインになっている場合もあれば、ある時点にだけ生じる場合もある。
往々にして、家族の相を見ることも重要である。家族のそれぞれの関係性が、家族の相として特徴づけられる。コミュニケーションが活発な相、それぞれが関わらない相、強い依存で結ばれている相、などなど。相は、個人を反映し、全体を写す鏡である。
さて、日本の世相に話を戻そう。世相は外から見ると、そのあり様がよくわかる。私がシドニーに滞在中、日本や世界の世相を捉えるのに役だったのは、インターネットの情報とSBS*のワールドニュースである。そもそも日本の雑誌やテレビは、日常生活をしている範囲ではなかなか簡単に手に入らない。日本食のお店で少し古い雑誌を見たり、日本のビデオ店で本やビデオを借りることはできるが、そうそう近くにあるわけでないし、たまに利用する程度である。タイムリーな情報をえるためには、ケーブルテレビなどを契約する必要がある。お金もないので、一般のテレビ番組が最もリソースとして卑近である。とはいっても、扱うニュースは、日本と随分違うものである。世界の相は、見聞きする場所によって随分と趣を変える。イラク戦争など大きな事件は同様に扱うが、日本にブッシュ大統領が来日したこと、若者の猟奇的な殺人事件などは、ニュースにならない。一方で、北海道の地震が映像で流されたり、道頓堀に飛び込むタイガースファンが映ったりする。
一般の放送局ではヘッドラインに乗らないものも、SBS*という多国語放送は、ちゃんと伝えてくれる。なんといってもNHKの7時のニュースが1日遅れで見られるのである(朝の5時半であるが)。ワールドニュースは、アフリカや南米、アジア、当然ヨーロッパの出来事を網羅して扱う。世界の各都市の天気さえも最後に流れる。これは世界の世相をつかむのに、とても役にたった。
日本の閉塞感と社会にたまったストレスの高さを良く示してくれたのが、ネットの情報である。毎日のように子供の殺人や、連続殺人がながれ、とおもうと、あざらしの挙動に一喜一憂する姿は、とても異様であった。景気が悪いといいつつ、人の波、光の波、あふれるもの、これはオーストラリ人にとって、まさしく理解に遠い異国の出来事と報道される。シドニーの人口や人の流れが多いといっても、比べ物にならないのである。そうして日本の人々は従順にやり方を堅持し、文句は言いつつも、変わろうとする気配はない。事実自民党は政権を手放さない(執筆時)。
オーストラリアは若い国で、多民族国家でもある。日本のように便利でないところや、組合が強くて変化に対応できてない点もある。なにごとも個人責任だから、行政は痛いとろに手が届くというわけでなし、お店も客にこびたりしない。しかしながら、基本的な人間同士のコミュニケーションというか、意思刺激の伝達はきちんと行われ、納得のいくまで討議される。それに対するフィードバック機構もあり、溜め込んで文句を言わず、その場で主張をする必要がある。これはいわば自動ドアでなく、人が挨拶しながらドアを開け閉めすることに近い。
外から見た日本の相は、言わば適応障害を起こしているのかもしれない。さまざまなシステムが、うまく機能しない。でも、今までのやり方を変えれない。ちょこちょこと問題が起こるが、結局は柔軟な変化ができない。内外の変化は必然であるが、適応できずに、血行にあたる経済は滞り、免疫にあたる危機管理もごてごてで、医療や教育といった高次機能もにっちもさっちも行かない。たまった主張や文句は適切に処理されず、さまざまな身体心理的症状のような、奇怪な世相として世に現れる。
他の社会や国々は、決してパラダイスでもないし、ばら色でもない。しかし、変化に対する対応や、問題に対する対処の柔軟性、システムの風通しの良さ、を持ち合わせているところもあり、今そのように変わりつつあるところは、勢いがいい。個々の構成組織である、個人もまた、血行が良く(金回りが良く)、代謝も良く(金使いも良く)、免疫は機能し、伝達もうまく行く。これにより、なにより大脳の前頭葉が活躍する。
人が人足る所以は、大きな大脳皮質、それも前頭葉前部の発達にあるという。天才科学者中田力氏*は、前頭葉のはたらきを持つ人間を「理性を持ち、感情を押さえ、他人を敬い、やさしさを持ち、決断力に富んだ、責任感のある、思考を持つ哺乳類」と定義している。人の立場に立って考えられること、この働きは相を診ることにつながる。こうした人が支える社会は、世相がよいのである。


*SBS;スペシャル・ブロードキャスティング・サービス(Special Broadcasting Service)、オーストラリアの公共放送局。オーストラリアは移民国家として発展し、国語である英語圏以外の先住民や移民が多い。本局は、英語以外の多言語放送が全体の半数を占めている。財源は政府交付金を主な収入としているが、コマーシャルが認められている。1975年にラジオ放送を開始。テレビは1980年開始、2002年にはデジタル放送で2つのテレビチャンネルを追加した。

中田 力 教授:新潟大学統合脳機能解析センター長、カルフォルニア大学デイビス校神経学教授
研究室ホームページhttp://coe.bri.niigata-u.ac.jp/index.php

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