I リカバリー全国フォーラム2010
~日本の精神保健福祉サービスを"当事者中心"に変革するために~
http://www.comhbo.net/modules/bulletinp3/index.php?page=article&storyid=1http://www.comhbo.net/uploads/rnf2010p8.pdf
○日時:2010年9月10日金曜日10:00~9月11土曜日17:00
○会場:文京学院大学・本郷キャンパス <東京都文京区>(東京メトロ南北線・東大前駅・2番出口・徒歩0分)
II 福祉サービスのプログラム評価研究者育成プロジェクト国際セミナー
○日時:2010年8月4日水曜日 10:00-17:00、8月5日木曜日13:00-16:30
○会場:日本社会事業大学教学A棟A401教室 (東京都清瀬市竹丘3-1-30)http://psilocybe.co.jp/0804/
III フィリス・ソロモン教授によるプログラム評価ワークショップ
「地域を基盤とする対人サービスプログラムのランダム化比較試験(RCT):その設計と実施の原則および実施ガイダンス」
http://psilocybe.co.jp/0730/
○日時:2010年7月30日金曜日 13:00-16:30
○会場:東京大学医学部3号館 N101教室 (東京都文京区本郷7-3-1)
IV フィリス・ソロモン講演会
日本の「当事者サービス提供者」の発展可能性を考える
http://psilocybe.co.jp/0809/
○日時:2010年8月9 日月曜日 19:00 ~ 20:30
○会場:岡山県精神科医療センター 4 階 サンクトホール〒700-0915 岡山市北区鹿田本町 3-16
http://www.popmc.jp/index.php?id=16
Official Weblog of Toru Uehara - かつて細々書き連ねてきた、医療や社会に関する私見提言を、また再開いたします。これまでの過去のコラムは、まとめてリンクいたします。
2010年7月23日金曜日
2010年7月21日水曜日
メンタルヘルスの現場で感じる無力感
自殺予防やメンタルヘルス対策の現場で感じる違和感
メディアの報道や社会の問題意識と、
実際その場に対峙する個々人が「どう思い、何ができるか」という現実とが、
残念ながら、時にかい離しているのでは?
危惧しているのだが、、
知識レベルでの現状認識や「声かけ方」などの対処策、組織レベルでの啓もうやシステム作り
これは大前提として、
ごく当たり前の相互扶助感がない中では、ボールの投げあいやセクター化を生みだしやしまいか?
「うちの部署で問題が起きたらこまるから、とにかく休んでいてほしい」
「メンタルというが、このくらいのことはみんな我慢している」
「何かして逆効果だと怖いので、とにかく専門家にゆだねておこう」
そもそも、人は環境なのかに生きている
これだけの自殺者が出る環境、そこに我々も他人事でなく、すごしている
みんなが強く我慢できるようになる、それだけでいいのか?
当たり前の傷つきや躓きさえ許容されない、そんな風潮がある中で、だれがどうやって人を救えるというのか?
「その姿、何年か先、もしくは何年か前、自分そのものかもしれない」という、『お互いさま』の思想はどこに消えたのか?
心と言葉が一致しない、マニュアル通りの「むりしないで」「やすんでいいよ」
ひいては、下手に手を出さないほうがいい、専門家にまかせさえすればよい
このくらのことでこうなるほうが弱い、という価値判断が暗黙の了解、
そうした組織システムの中で、
どんなに「いまはあせらず」「よくなればとりもどせる」といった言葉を伝えても、、、
基本となる集団環境は、個人が形成するシステム、そして複雑なものには命が宿る
命を失う社会では、個々人が何かを見失っているのかもしれない
何かが起きたら”カウンセラー”、まるで魔法のことば
メンタル知識では、うつのせいと習いました、とにかく医者にかけること
労働状況のせい、経済のせい、あとは人事課や庶務課にまかせておこう
もちろんそれらは大切なことだが、、、
真にその人の立場に立った
「いまは、やすもう」
「健康さえ戻れば、なんとかなる」
「できる範囲で、力になりたい」
”言葉の力”
その復活を願うばかり
かかわるかたがたお一人お一人の、
常識的な想像力と共感力
それこそが、真のメンタルヘルスを導くカギ
そう痛感しているのだが、、、いかんせん微力である
メディアの報道や社会の問題意識と、
実際その場に対峙する個々人が「どう思い、何ができるか」という現実とが、
残念ながら、時にかい離しているのでは?
危惧しているのだが、、
知識レベルでの現状認識や「声かけ方」などの対処策、組織レベルでの啓もうやシステム作り
これは大前提として、
ごく当たり前の相互扶助感がない中では、ボールの投げあいやセクター化を生みだしやしまいか?
「うちの部署で問題が起きたらこまるから、とにかく休んでいてほしい」
「メンタルというが、このくらいのことはみんな我慢している」
「何かして逆効果だと怖いので、とにかく専門家にゆだねておこう」
そもそも、人は環境なのかに生きている
これだけの自殺者が出る環境、そこに我々も他人事でなく、すごしている
みんなが強く我慢できるようになる、それだけでいいのか?
当たり前の傷つきや躓きさえ許容されない、そんな風潮がある中で、だれがどうやって人を救えるというのか?
「その姿、何年か先、もしくは何年か前、自分そのものかもしれない」という、『お互いさま』の思想はどこに消えたのか?
心と言葉が一致しない、マニュアル通りの「むりしないで」「やすんでいいよ」
ひいては、下手に手を出さないほうがいい、専門家にまかせさえすればよい
このくらのことでこうなるほうが弱い、という価値判断が暗黙の了解、
そうした組織システムの中で、
どんなに「いまはあせらず」「よくなればとりもどせる」といった言葉を伝えても、、、
基本となる集団環境は、個人が形成するシステム、そして複雑なものには命が宿る
命を失う社会では、個々人が何かを見失っているのかもしれない
何かが起きたら”カウンセラー”、まるで魔法のことば
メンタル知識では、うつのせいと習いました、とにかく医者にかけること
労働状況のせい、経済のせい、あとは人事課や庶務課にまかせておこう
もちろんそれらは大切なことだが、、、
真にその人の立場に立った
「いまは、やすもう」
「健康さえ戻れば、なんとかなる」
「できる範囲で、力になりたい」
”言葉の力”
その復活を願うばかり
かかわるかたがたお一人お一人の、
常識的な想像力と共感力
それこそが、真のメンタルヘルスを導くカギ
そう痛感しているのだが、、、いかんせん微力である
2010年7月14日水曜日
人生について語られたこと-水木しげる氏の「カランコロン漂泊記」から
NHK朝ドラで話題の水木御大、その著作(小学館)から、「幸福観察学」を通じて学ぶこと。
「、、“霊界”があると考えるのと、“無い”と考えるのとでは、どうも同じように生きても、その幸福観というか、安定感が大きく違うような気がする。(中略)人間はまだ地上に生まれてくるが、何かわかりかけると死んでしまう、ようになっているのだ。最近の楽しみは、霊界での再生(いや人間は死なない)だ。」
ユーモアというよりも、ナチュラルなメタの視線、とでもいうべきか。
なんとも、余分な力が抜けて、豊かな別世界につながっておられる。
それは、氏が良く語る「うんこ」や「おなら」論議でも、同様である。
「人間は生きようという意志の強弱があり、目に見えない意思の強弱が、死に方にも影響すると思っている。“意思の力”、はバカにならんというわけだ」
戦争体験が、氏の幸福学に大きな影響を与えている。
前線での不審番(みはり)で、敵の襲来ではなく、南方ジャングルや朝日の『美』にみとれていたために、逆に死の運命を逃れた。
腕を切断してから半年も入浴できずにいた氏を、風呂に入れて洗ってくれた兵隊たち、どうもヒトの中に『ボサツ』が混じっていたらしい、と気付く。一方で『悪魔』も混じっているが、そういう次元の異なる(!)方々は、目には見えず【憑く】といった現れ方をするという。
カランコロン的幸福論に基づく、示唆の数々がちりばめられている。
答案用紙の110点!に自らおどろき自信を持ったという話は、笑いの向こうに、深い世界が広がる。
実は、0点の下に強調の棒2本、そんなテストの回答用紙を、つい90度回してみてしまい、
「おれはなんて天才だ、開校以来だれも110点をとった者はいないだろう」という、水木世界。
「毎日賢くなるのは、すべてを斜めに見ているからカナ?」
『睡眠力と偉大なる胃、そして貧乏力』
睡眠力による、マラリアからの回復?は、妙な説得力がある。
「、、大好きな妖怪たちとの接触、時をみて冒険旅行、そしておいしい毎日の食事。すこしぼけたせいか、毎日が楽しくてたまらない、というより胃を人に分けてやりたいと思うのも、ぼけのはじまりかもしれない」
健啖です。
「貧乏から金持ちになると、得体のしれない恐怖みたいなものが横に座っていた」
(素晴らしい外在化!)。
「おまえは、心配神、ヒトをくよくよさせて、幸福にさせないのだ!」
「そうさ、ひとは俺を追い出すのに大騒ぎ、おまけに変な宗教を作ったりして」
「あっちいけ、俺には貧乏力がある!」
(素晴らしい、positive connotation)
「どうしてそんなに働くの?」という猫のことば、
「この世は通過するだけのものだから、あまり気張る必要はないよ」、と言われ、
「ふーん、動物も植物も決められたようにしか生きられないのだ。
力んでも屁が出るくらいのことで、あまり差がないようだな~」
おっしゃるとおりかもしれません。
「、、“霊界”があると考えるのと、“無い”と考えるのとでは、どうも同じように生きても、その幸福観というか、安定感が大きく違うような気がする。(中略)人間はまだ地上に生まれてくるが、何かわかりかけると死んでしまう、ようになっているのだ。最近の楽しみは、霊界での再生(いや人間は死なない)だ。」
ユーモアというよりも、ナチュラルなメタの視線、とでもいうべきか。
なんとも、余分な力が抜けて、豊かな別世界につながっておられる。
それは、氏が良く語る「うんこ」や「おなら」論議でも、同様である。
「人間は生きようという意志の強弱があり、目に見えない意思の強弱が、死に方にも影響すると思っている。“意思の力”、はバカにならんというわけだ」
戦争体験が、氏の幸福学に大きな影響を与えている。
前線での不審番(みはり)で、敵の襲来ではなく、南方ジャングルや朝日の『美』にみとれていたために、逆に死の運命を逃れた。
腕を切断してから半年も入浴できずにいた氏を、風呂に入れて洗ってくれた兵隊たち、どうもヒトの中に『ボサツ』が混じっていたらしい、と気付く。一方で『悪魔』も混じっているが、そういう次元の異なる(!)方々は、目には見えず【憑く】といった現れ方をするという。
カランコロン的幸福論に基づく、示唆の数々がちりばめられている。
答案用紙の110点!に自らおどろき自信を持ったという話は、笑いの向こうに、深い世界が広がる。
実は、0点の下に強調の棒2本、そんなテストの回答用紙を、つい90度回してみてしまい、
「おれはなんて天才だ、開校以来だれも110点をとった者はいないだろう」という、水木世界。
「毎日賢くなるのは、すべてを斜めに見ているからカナ?」
『睡眠力と偉大なる胃、そして貧乏力』
睡眠力による、マラリアからの回復?は、妙な説得力がある。
「、、大好きな妖怪たちとの接触、時をみて冒険旅行、そしておいしい毎日の食事。すこしぼけたせいか、毎日が楽しくてたまらない、というより胃を人に分けてやりたいと思うのも、ぼけのはじまりかもしれない」
健啖です。
「貧乏から金持ちになると、得体のしれない恐怖みたいなものが横に座っていた」
(素晴らしい外在化!)。
「おまえは、心配神、ヒトをくよくよさせて、幸福にさせないのだ!」
「そうさ、ひとは俺を追い出すのに大騒ぎ、おまけに変な宗教を作ったりして」
「あっちいけ、俺には貧乏力がある!」
(素晴らしい、positive connotation)
「どうしてそんなに働くの?」という猫のことば、
「この世は通過するだけのものだから、あまり気張る必要はないよ」、と言われ、
「ふーん、動物も植物も決められたようにしか生きられないのだ。
力んでも屁が出るくらいのことで、あまり差がないようだな~」
おっしゃるとおりかもしれません。
2010年7月5日月曜日
カウンセリング・マインド 葛藤を止揚できるか?
相談場面で出会う厳しく困難な出来事に、
支援者としてどう処したらいいのか?
自戒をこめて、語りました
こちらのアドレスでご覧になれます
http://ghsc.aramaki.gunma-u.ac.jp/outside/bn_09.php
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