2010年12月27日月曜日

メンタルヘルス講演でのつぶやき

今年の締めくくりに、

職場のメンタルヘルスについて、少々語ります

自分自身の問題として、取り組んでいきたいと思っています



以下の動画をご覧ください

http://www.youtube.com/watch?v=7exeq8esw7o

2010年12月6日月曜日

年末、田坂氏の語りに耳を傾ける

今年も終わろうとしているが、

振り返りの自戒を込めて、

私淑する田坂広志氏の語りをリンクする

特にワールドシフトTYO-FMの3回目は、

こころにしみた


WorldShiftRadio
http://www.tfm.co.jp/podcasts/worldshift/?id=30
http://www.tfm.co.jp/podcasts/worldshift/?id=31
http://www.tfm.co.jp/podcasts/worldshift/?id=32


詩的寓話の朗読
http://www.youtube.com/watch?v=YBW2b6r9ryo


The Key to Solving Global Problems is to Shift the Paradigm of Capitalism (World Shift Council)
http://worldshiftcouncil.org/2010/08/31/the-key-to-solving-global-problems-is-to-shift-the-paradigm-of-capitalism/

2010年11月19日金曜日

名言からの追想

「私たちは彼の弱点にはそっと触れるようにしないといけません。欠点は美質と表裏一体なので、欠点という雑草を取り除くと長所の根まで抜いてしまうことがあるのです。(ゴールドスミス)」


この名言を聞いて、

朝、畑の片隅に、濃紫の野草の花、小さく美しく咲いている。

とても抜く気にはなれない。

大事なのは、目をかけて彼らの環境に合わせて手入れすること、でないと野草も宿根草だろうが、混沌としてくる。

勝手に植えかえたりすると、かわいそうな目にあわせてしまう。

朝の庭と名言から、追想する。

****************

「独りで行くほうがいい。独りで歩め。悪いことはするな。求めるところは少なくあれ。林の中の象のように。」

この仏陀の言葉から

林の中の象、一人で地図なき世界を歩むことは、きびしいものだろう。
勁さ、とは、静かなることか。

2010年11月10日水曜日

最近のつぶやきから、2

朝、校庭で子供たちが、持久走の練習をしている。
自分も小学校の時、柔道を始めた。
道場は、バスで40分かかった。知り合いは誰もいなかったが、続けた。

最初のころ、緊張感や孤独感を感じた。
どういうわけか、慣れていった。スキルなど、なにもなかった。
よわっちかった自分が、あれから少し変わった。

はじめての人たちと出会うなじみない場所で、感じる緊張や孤独、独特のクオリアがあった。
その後の人生で、進学、職場、留学、部署移動、同じ感覚を度々味わう。
自分によって立つ感覚、とでもいおうか。

その時々に、なぜかスポーツがあった。
決して、運動神経は良くない。自信がつくほど、何かにうちこんでもいない。
そして競技は一人ではできないし、一人きりでやってもあまり楽しくもない。
結局は、自分の身体、技術、内面、に拠るしかない。
なんだか、人生につながる。

軟弱な自分は、一つスポーツを続けたことがあまりないが、スキーや陸上、ダイビング、ゴルフ、いろいろと体験し、楽しんだ。
軟弱な自分を知るには、最高の「遊び」だが、自らを知るという危険な機会でもあったのは確かだ。
軟弱らしく、生きていこうという、そんな感覚。

ホモ・ルーディエンス、遊ぶ存在としての、ヒト。
スポーツにも、自己達成、仕事、勝負だけでない、文化としての「遊び」がある。
茂木健一郎氏の言う、偶有の危険、そして可能性かもしれない。

2010年11月1日月曜日

ワークショップのお誘い


今月、大学メンタルヘルスに関するワークショップを開きます

県内でご尽力されている方をお招きし、
連携の第一歩にしたいと思っています

入場無料ですので、
関心のある皆さんの参加をお待ちします

2010年10月22日金曜日

最近のつぶやきから

幸福について

日々の瑣末な出来事や、社会の大きな出来事で、幸福感が揺らぐ、不運感がうごめく。
でも、幸福の相対、こんなことを思索できる、この空間と社会は、案外幸福なのかもしれない。


自分の中にある、ある種の物差し、
「あの時、あの国で、あの時代、幸せだったなー」
ついその物差しで幸せを比べたり、測ったりする、そんなときもある。

「隣の芝生がうらやましい」、
そう思ったら、目の前の芝を手入れすることから始めるか。

今この時、この瞬間、マインドフル、
あらゆる名言の指す幸福、物差しはそこにしかないのだろう。



家族とは何か?

子供がうまれると、自分の呼ばれ方が変わる、
それは同時に、他者の名称を変える、例えば、弟は、おじさんになる
時間とともに、私は伯父さんにも、叔父さんにも、おじいさんにもなっていく
ある意味、違う人生が生きられる
その可能性を、家族というのかもしれない

こんなことを、夕、空を見て考える生物存在はいるんだろうか?
でも、隣で子供がおちつきなくはしゃぐのをみている自分が、
名称とともに変化していることを自覚する

家族とは何か、人とは何か?
関係性、それを構築する世界、それは時に傷つきや、漫画にもなり(今サザエさんを見ている)、
何かををつなぎ、私たちを共感の場にいざなう

2010年10月13日水曜日

JSEDホームページコンテンツ

日本摂食障害学会で、
「摂食障害の精神科治療」小論集が作成されました
無料でどなたでもダウンロードできます
http://www.jsed.org/links.html

「この小論集は、摂食障害の精神科的治療について若手(?)を中心として書いてもらい、今後の摂食障害の精神科的治療の普及と向上を目標としました。 ダウンロードして、研修医・医療スタッフ・家族・患者さんの教育用に活用してください。」

小生も、若手とは呼べない年ですが、分担執筆しています

どうぞ参考に

2010年10月6日水曜日

社団法人日本自閉症協会主催研修会・治療教育相談会のご案内

日本自閉症協会では、財団法人JKAの補助を受けて、研修会・治療教育相談会を実施するそうです
http://www.normanet.ne.jp/~autism.g/

財団法人JKA補助事業 治療教育相談社団法人日本自閉症協会主催研修会・治療教育相談会

【日時】2010年10月31日(日)    10:00~受付    
10:30~11:45 研修会(B01号室 地下1階)    
11:45~13:00 昼食・休憩(B01号室)           
午後の治療教育相談希望の方は各自昼食をご用意下さい。    
13:00~13:50 治療教育相談全体会    
14:00~14:30 個別治療教育相談会    

【場所】群馬県社会福祉総合センター(前橋市新前橋町13-12)
【講師】市川宏伸氏(東京都立小児総合医療センター顧問・日本自閉症協会理事)
【演題】自閉症児者の二次障害の対応~医療的ケアの立場から~
【定員】60名  (治療教育相談 8名) 先着順    
治療教育相談希望の方は申し込みの際にご連絡ください。折り返し、相談票を送付いたします
【参加費】500円
【申込み・問い合わせ】申込先・問い合わせ先等の詳細はホームページをご覧ください     http://www.normanet.ne.jp/~autism.g/ 

参考までに

2010年9月26日日曜日

「リワーク群馬」がスタート

働く人々のメンタルヘルスに、大きな要請が課せられている。

こうした流れの中で、かつての仲間が、

まさに新しい試みを、始めようとしている。

リワーク・・・職場復帰に向けての、新しい支援リソースを立ち上げる。

デイケア方式を応用しつつ、復職や復学にターゲットを絞った、プログラム。

限りない可能性を秘めた、その「場」を下見させていただいた。

広く多様な空間、さまざまなアクティビティに適用できる。

クリニックの所在地そのものも、適度な郊外にあり、

仕事場と休養の場を、メタファーとして繋ぎうる。

ふとうかんだキーワード、それは、空間と時間の治療的意味。

復職に向けて、時間の流れが変わる。

それまでの静養のリズムを、徐々に職場のリズムへと、モードが変わる。

その体験を力づける場。

あせりや自信、不安や意気込み、内的な時間の揺れ動きにも、まなざしを向けたい。

その気持ちによりそう場。

時に難しい事態にも遭遇するだろう。

さまざなスタッフをマネージし、彼らとともに、新しい工夫が生まれるにちがいない。

創発的な成長を培う、場。


リワーク群馬と名付けられた試みは、10月初頭、
高崎市の中泉メンタルクリニックから、発信される。



2010年9月15日水曜日

メンタルヘルスに関する公的情報サイト

厚生労働省が主体となって作成した、メンタルヘルスの情報ページをご案内します。

10、20代の若者のために「こころもメンテしよう」
http://www.mhlw.go.jp/kokoro/youth/

中高生を支える教職員向けのサイト
http://www.mhlw.go.jp/kokoro/teacher/index.html

みんなのメンタルヘルス総合サイト
http://www.mhlw.go.jp/kokoro/index.html


どうぞ、ご利用ください。

2010年9月6日月曜日

人生のアスリートとは?  -メンタルヘルス通信No10

メンタルヘルス通信の最新号で、


スポーツとメンタルヘルスについて語りました


スポーツがもつ豊かな世界、それはこころとからだ、双方と結びついています


そもそもトップアスリートは、身体能力だけでなく、メンタル面のコントロールに、
極めて優れた方々といえます


彼らが我々に与えてくれるメッセージは何か?


ヒトとして生きる上で、何を目指すか?


人生のアスリート、という言葉が、おのずと湧き上がります


こちらからご覧になれます


http://ghsc.aramaki.gunma-u.ac.jp/outside/bn_10.php


2010年8月25日水曜日

ワークショップのお誘い

県内の大学等でメンタルヘルス支援に尽力されている方々、
連携にむけての第一歩を目指して、
22年度メンタルヘルス研究会を開催します

以下のリンクで、ご案内します

http://ghsc.aramaki.gunma-u.ac.jp/outside/m_h_annai.php

関心のある方々に、おすすめいただければ幸いです

2010年8月11日水曜日

こころとからだ

ふと日常で出会った、ちょっと残念なやり取り

こころとからだの相克を、如実に表す出来事

そのエピソードから、医学の道を考える



検査で異常がでない、もしくは訴えほどに所見が乏しい、

すなわち、「こころの病」、

そう速断されたい気持ちはわかるが、、、



大人はともかくも、こどもでは特に、こころのサインが体で表れやすい

かといって、それをただちにこころのせいと、

今、我々のもちうる検査で、いいきれるだろうか?

微妙なミクロレベルの組織変化や機能異常、

それをこころのせい、いや、からだのせいと決めることに、

意味があるのだろうか?

そんなことが神業のように、わかるだろうか?



あえて、こころの要因が大きいとしよう

としても、子供たちがその意味を理解し、それを解決する心持に至るには、なかなか険しいステップが待っている

たとえば、複雑で慢性的な体の病で、何度も入院をし、

きつい治療を受けてきた子供たち、

彼女や彼らが、いろいろな体の異変に対し、時に敏感になったり、

不安や恐怖を感じたり、予想以上の苦悩を表わすことは、容易に想像できる



大人ではどうか?

同じ腰痛であっても、レントゲン写真に異常がないからといって、

検査には出ない微細な筋肉や神経の異変を、ただちに否定されては、

途方に暮れるだろう


21世紀初頭の検査が万能で、体の変化すべてを示しうるとは、思えない

もちろん、過度の憂慮に対し、きちんとした説明や見立てが語られてよい

その際、これまでの経過や、その時々の状況、その人の性格、

プロと呼ばれる臨床家は、そうしたことに、配慮されるのだろう



簡潔に心身2言論で片づけられない生命という存在、

その複雑さに想像をはせ、語る言葉がこのケースにどう受け取られるか、

それを慮った上で伝えられる言説こそ、

真のプロフェッショナルの技



たとえば、家族の複雑な背景や歴史があったとしよう

同じ所見でも、違った様相で伝わる

もしかしたら、家族自体が支えられるために、病が維持される場合もある

ただちに、心の問題ですよ!と説明することの、効と罪

共感したうえで、あえて洞察を待つ姿勢、

それがプロフェッショナルの覚悟



もし、医者が平均より若干でも高い給料をもらい(実際は?だが)、

社会である程度尊敬される職業ならば(これもなかなかに厳しいか?)、

教科書的博識やデータをたくさんもち、

それを忠実に則って、その通り間違いなく伝えることそのものに、

あまり専門性はない


そうした基本的知識を十分に備え、要所で伝え、時に伝えずに、見守る

ひとりひとりの人生を見つめたうえで、出す処方や手技、

そして言葉、

それを極める専門性こにこそ、医師として目指すべき道があるのではないか?



さみしいエピソードから、厳しい道を、学んだ

2010年8月4日水曜日

悲しいニュース

「大阪で幼い姉弟2人が閉じ込められ、遺体で見つかった虐待事件で、空っぽの小型冷蔵庫の扉に、子供たちが手で触ったような跡が残っていたことが、関係者への取材で分かった。おさない姉弟が食べ物を必死に探したり、冷房が効かないため逃れるように涼しさを求めたのではないか、とみている。」
(今日のニュースより)


言葉が出ない、痛ましく、涙が出てくる。

2010年8月2日月曜日

空港の想い出

空の港、そこでは人々の出立と別れ、帰郷、旅路、さまざまな物語が紡がれる。
夏休み、海外旅行にでかける子供たちのニュースが流れる。
そんな時期が、また訪れた。

まだみぬ異国の地を想い、期待と不安に胸を躍らせる。
時に、重いものを背負い、長いフライトに臨む。
しばらくぶりに戻った祖国の雰囲気やにおい、
空港のロビーは、これまで住み慣れた場所からモードが変わる、最初のゲートである。

船旅の時代は、港が今生の別れの場にもなったかもしれない。

いくつもの情景や感触が、よみがえる場所、それがポート。

昔よく訪れたアジアの空港では、人々のエネルギー、猥雑ともいえるパワーが、いまでも強くよみがえる、プーケット、ランカウイ、バリ、きんぽ、バンコクなど、それぞれに音と香りが違う。

傷心のダイビングに一人南へ向かった時、パラオへのトランジットで深夜数時間過ごした、ひと気のない島の空港、あの静けさ。

学会でヨーロッパを回った時、最終地であるノルェウーのオスロ空港の、こぎれいなカウンターで、あちこちの通貨を変えるのにずいぶん手間取った。でも、フィヨルドで有名なベルゲンは、こじんまりとして、かわいい街だった。

オーストラリアの空港には、それぞれ忘れがたい思い出がある。
シドニードメスティックの朝飯(おおかた寿司ロールですませた)、メルボルンの空港バス(朝便なのでいつもきつい)、パースではフリーマントルの方が懐かしい。
レディエリオットやカンガルー島、ランセストンなど、小さい空港も乗り換え時間が長かった分、記憶に残っているのだろうか、かえって味があった。
ブンダバーグの町の売店で、ちょっと差別的な高齢女性がキャッシャーにいたが、翌日ブリスベン行の小型機でたまたま隣座になった。お年寄りに手を貸してあげていたら、驚いた顔をしていたことを思い出す。

正月に弟と台湾屋台めぐりに訪れた、広々した高雄空港。でも本当に広かっただろうか?少なくとも六合夜市がやたら大きかった!ので、記憶が入り混じっているかもしれない。

ネパールのポカラという山の町に、プロペラ機で降り立った時、飛行場?に牛がいた!
道で雨宿りしていた時、日本語で話かけてきたネパールの男の子、いまはなにをしているだろう。

ボラカイ島に行った時も、やはりプロペラ機はなにげない草地に降り立った!
同乗した旅行者の小さい幼児たち、サバイバルにたけた大人になっているだろう。

とりとめもなく、あちこちの空港を思いだす。

今、ネット上では、バーチャルな港がある。
検索ソフトのゲートページなど、空港の様なものだ。
多くの人が買い物をし、情報を集め、目指す場所に飛んでいく。
グーグルアースで一瞬に世界を駆け巡り、行ったことのない場所に舞い降りる。
名前も知らなかった世界の小さな村の、だれかのつぶやきがすぐに飛び込んでくる。

時間や距離は、相対的にずいぶんと変化した。

21世紀、そろそろハブ宇宙港ができるかもしれない。

ただし、そこに生きる人間が、何を思い、何を感じ、何をつかむか。
港がスピード化し、宇宙まで広がっても、実のところ、使う人は、そう変わるまい。
ゆっくりとした時の流れや、空間の観察から得られる感覚、これも捨てたものではない。

2010年7月23日金曜日

精神保健福祉のメーリング情報より転載

I リカバリー全国フォーラム2010
~日本の精神保健福祉サービスを"当事者中心"に変革するために~
http://www.comhbo.net/modules/bulletinp3/index.php?page=article&storyid=1http://www.comhbo.net/uploads/rnf2010p8.pdf
○日時:2010年9月10日金曜日10:00~9月11土曜日17:00
○会場:文京学院大学・本郷キャンパス <東京都文京区>(東京メトロ南北線・東大前駅・2番出口・徒歩0分)


II 福祉サービスのプログラム評価研究者育成プロジェクト国際セミナー
○日時:2010年8月4日水曜日 10:00-17:00、8月5日木曜日13:00-16:30
○会場:日本社会事業大学教学A棟A401教室 (東京都清瀬市竹丘3-1-30)http://psilocybe.co.jp/0804/


III フィリス・ソロモン教授によるプログラム評価ワークショップ
「地域を基盤とする対人サービスプログラムのランダム化比較試験(RCT):その設計と実施の原則および実施ガイダンス」
http://psilocybe.co.jp/0730/
○日時:2010年7月30日金曜日 13:00-16:30
○会場:東京大学医学部3号館 N101教室 (東京都文京区本郷7-3-1)


IV フィリス・ソロモン講演会
日本の「当事者サービス提供者」の発展可能性を考える
http://psilocybe.co.jp/0809/
○日時:2010年8月9 日月曜日 19:00 ~ 20:30
○会場:岡山県精神科医療センター 4 階 サンクトホール〒700-0915 岡山市北区鹿田本町 3-16
http://www.popmc.jp/index.php?id=16

2010年7月21日水曜日

メンタルヘルスの現場で感じる無力感

自殺予防やメンタルヘルス対策の現場で感じる違和感
メディアの報道や社会の問題意識と、
実際その場に対峙する個々人が「どう思い、何ができるか」という現実とが、
残念ながら、時にかい離しているのでは?
危惧しているのだが、、

知識レベルでの現状認識や「声かけ方」などの対処策、組織レベルでの啓もうやシステム作り
これは大前提として、
ごく当たり前の相互扶助感がない中では、ボールの投げあいやセクター化を生みだしやしまいか?

「うちの部署で問題が起きたらこまるから、とにかく休んでいてほしい」
「メンタルというが、このくらいのことはみんな我慢している」
「何かして逆効果だと怖いので、とにかく専門家にゆだねておこう」

そもそも、人は環境なのかに生きている
これだけの自殺者が出る環境、そこに我々も他人事でなく、すごしている
みんなが強く我慢できるようになる、それだけでいいのか?
当たり前の傷つきや躓きさえ許容されない、そんな風潮がある中で、だれがどうやって人を救えるというのか?
「その姿、何年か先、もしくは何年か前、自分そのものかもしれない」という、『お互いさま』の思想はどこに消えたのか?

心と言葉が一致しない、マニュアル通りの「むりしないで」「やすんでいいよ」
ひいては、下手に手を出さないほうがいい、専門家にまかせさえすればよい
このくらのことでこうなるほうが弱い、という価値判断が暗黙の了解、
そうした組織システムの中で、
どんなに「いまはあせらず」「よくなればとりもどせる」といった言葉を伝えても、、、


基本となる集団環境は、個人が形成するシステム、そして複雑なものには命が宿る
命を失う社会では、個々人が何かを見失っているのかもしれない


何かが起きたら”カウンセラー”、まるで魔法のことば
メンタル知識では、うつのせいと習いました、とにかく医者にかけること
労働状況のせい、経済のせい、あとは人事課や庶務課にまかせておこう
もちろんそれらは大切なことだが、、、

真にその人の立場に立った
「いまは、やすもう」
「健康さえ戻れば、なんとかなる」
「できる範囲で、力になりたい」
”言葉の力”
その復活を願うばかり

かかわるかたがたお一人お一人の、
常識的な想像力と共感力
それこそが、真のメンタルヘルスを導くカギ

そう痛感しているのだが、、、いかんせん微力である

2010年7月14日水曜日

人生について語られたこと-水木しげる氏の「カランコロン漂泊記」から

NHK朝ドラで話題の水木御大、その著作(小学館)から、「幸福観察学」を通じて学ぶこと。

「、、“霊界”があると考えるのと、“無い”と考えるのとでは、どうも同じように生きても、その幸福観というか、安定感が大きく違うような気がする。(中略)人間はまだ地上に生まれてくるが、何かわかりかけると死んでしまう、ようになっているのだ。最近の楽しみは、霊界での再生(いや人間は死なない)だ。」

ユーモアというよりも、ナチュラルなメタの視線、とでもいうべきか。
なんとも、余分な力が抜けて、豊かな別世界につながっておられる。
それは、氏が良く語る「うんこ」や「おなら」論議でも、同様である。

「人間は生きようという意志の強弱があり、目に見えない意思の強弱が、死に方にも影響すると思っている。“意思の力”、はバカにならんというわけだ」


戦争体験が、氏の幸福学に大きな影響を与えている。

前線での不審番(みはり)で、敵の襲来ではなく、南方ジャングルや朝日の『美』にみとれていたために、逆に死の運命を逃れた。

腕を切断してから半年も入浴できずにいた氏を、風呂に入れて洗ってくれた兵隊たち、どうもヒトの中に『ボサツ』が混じっていたらしい、と気付く。一方で『悪魔』も混じっているが、そういう次元の異なる(!)方々は、目には見えず【憑く】といった現れ方をするという。


カランコロン的幸福論に基づく、示唆の数々がちりばめられている。

答案用紙の110点!に自らおどろき自信を持ったという話は、笑いの向こうに、深い世界が広がる。
実は、0点の下に強調の棒2本、そんなテストの回答用紙を、つい90度回してみてしまい、
「おれはなんて天才だ、開校以来だれも110点をとった者はいないだろう」という、水木世界。
「毎日賢くなるのは、すべてを斜めに見ているからカナ?」

『睡眠力と偉大なる胃、そして貧乏力』
睡眠力による、マラリアからの回復?は、妙な説得力がある。
「、、大好きな妖怪たちとの接触、時をみて冒険旅行、そしておいしい毎日の食事。すこしぼけたせいか、毎日が楽しくてたまらない、というより胃を人に分けてやりたいと思うのも、ぼけのはじまりかもしれない」
健啖です。

「貧乏から金持ちになると、得体のしれない恐怖みたいなものが横に座っていた」
(素晴らしい外在化!)。
「おまえは、心配神、ヒトをくよくよさせて、幸福にさせないのだ!」
「そうさ、ひとは俺を追い出すのに大騒ぎ、おまけに変な宗教を作ったりして」
「あっちいけ、俺には貧乏力がある!」
(素晴らしい、positive connotation)

「どうしてそんなに働くの?」という猫のことば、
「この世は通過するだけのものだから、あまり気張る必要はないよ」、と言われ、
「ふーん、動物も植物も決められたようにしか生きられないのだ。
力んでも屁が出るくらいのことで、あまり差がないようだな~」

おっしゃるとおりかもしれません。

2010年7月5日月曜日

カウンセリング・マインド 葛藤を止揚できるか?

相談場面で出会う厳しく困難な出来事に、

支援者としてどう処したらいいのか?

自戒をこめて、語りました


こちらのアドレスでご覧になれます

http://ghsc.aramaki.gunma-u.ac.jp/outside/bn_09.php

2010年6月29日火曜日

人生について、語られたこと‐村上春樹氏のエッセイより

「走ることについて語るときに僕の語ること」(文春文庫)より

ありきたりな出来事の積み重ねの上に、今の自分がいる。
そんなことを、自分もふと考えたとき、このフレーズが何か心に残った。

「、、、今、ここにいる。カウアイのノースショアに。人生について考えると、ときどき自分が浜に打ち上げられた一本の流木に過ぎないような気がしてくる。」

かつての自分には想像のつかない今を生きていると感じるとき、このフレーズが心に響く。

「年を取るのはこれが生まれて初めての体験だし、そこで味わっている感情も、やはり初めて味わう感情なのだ。、、、細かい判断みたいなことはあとにまわし、そこにあるものをあるがままに受け入れ、それとともにとりあえず生きていくしかないわけだ。ちょうど、空や雲や川に対するのと同じように。」

同じことを繰り返していると、ふと気付いた時、このフレーズに慰められた。

「、、ある種のプロセスは何をもってしても変更を受け付けない。、、、そのプロセスをどうしても共存しなくてはならないとしたら、僕らにできるのは、執拗な反復によって自分を変更させ(あるいは歪ませ)、そのプロセスを自らの人格の一部として取り込んでいくだけだ。やれやれ。」

人生のゴールを少し考える年になり、このフレーズが何かを導いてくれる気がしている。

「終わりというのは、ただとりあえずの区切りがつくというだけのことで、実際はたいした意味はないんだという気がした。生きることと同じだ。終わりがあるから存在に意味があるのではない。存在というものの意味を便宜的に際立たせるために、あるいはまたその有限性の遠回しな比喩として、どこかの地点にとりあえずの終わりが設定されているだけなんだ、そういう気がした。」

そして、目に見えない、数字にあらわれない、生きること(走ること)の価値にむかって。

「大事なのは時間と競争することではない。、、、どれくらい自分自身を楽しむことができるか、おそらくそれが、これから先より大きな意味を持ってくることになるだろう。数字に表れないものを僕は愉しみ、評価していくことになるだろう。そしてこれまでとは少し違った成り立ちの誇りを模索していくことになるだろう」

2010年6月16日水曜日

心理教育の思想と実践 知行合一に向けて

「臨床精神医学」6月号で、心理教育update、が特集されています。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/B003PLNK3U/ref=s9_simh_gw_p14_i7?pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_s=center-1&pf_rd_r=0PHBM7XDRGV9EJ90CY3V&pf_rd_t=101&pf_rd_p=463376736&pf_rd_i=489986


名だたる先輩や専門家の原稿とともに、拙論が掲載されました。

これからの心理教育はどこに向かうのか?
そもそも、何を伝え、どう聴くのか?

依頼を受けて、今の正直な想いを、一気加勢に書き上げました。

やや異彩を放っているかもしれませんが、ご覧いただければ幸いです。



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こちらで抄録をご覧になれます
https://univ-db.media.gunma-u.ac.jp/public/main.php?pid=paper&kno=929146&cat=paper&rid=dbe81c80f39a44ecc7767091a3fefc1c


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執筆の機会をいただいた、編集委員の大島巌先生に、深く感謝します。

株)アークメディア 臨床精神医学
 http://www.arcmedium.co.jp/

2010年6月7日月曜日

生き方に引退はない

“ハイチのマザーテレサ”
 83歳日本人女医の挑戦

http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=2893

死者22万人の大地震に襲われたハイチで、30年以上医療活動を続けている日本女性がいる。
「ハイチのマザーテレサ」、とよばれる、医師で修道女の須藤昭子さん(83歳)。
長い無政府状態から、取り残された『場所』と言われた国。
失業率70%の貧困、治安悪化、政治の混乱が続くハイチで、結核医療支援を続けてきた。
地震発生時は3年ぶりの帰国中で、難を免れられた。
先月、現地に戻った須藤さんが直面したのは、想像を絶する被災の実態、そして、国際的な支援の手が十分に届かない貧困層の苦しみ。
ハイチの人々が自らの手で復興する道を手助けしようと、さらなる活動を始めた。

それを支えるのは、

『自分で考えるというより、こういうことをどういうふうにしていったらいいのだろうと、相談をかけます。そうすると、向こうから、ハイチ人の青年達から、いっしょに働いているグループの人たちから、こういうふうにしたらどうだろうか、というふうに、自分達から回答を持ってくるわけですね。それで、私も、「じゃあ、それはいい考えだ」とか、「いや、もっとこうしたらいいのではないか」とかいうふうに、相談しながらやっていく。ですから一人ではないのです。一緒にやっていくんですよね』

という協働の姿勢

国谷キャスターの
「83歳ということで、そろそろ活動を辞めようと考えることはありませんか?」という問いに、

「年齢ではなくて、引退ってことは考えません。
引退は職業ですよね。
でも私は、一つの生き方ですから。
生き方に引退はないんじゃないでしょうか。」

確固たる生き方をされている方の、おごりも高ぶりもない、冷静で熱い、心の姿勢を、感じた。

2010年5月24日月曜日

カウンセリング・マインド 3つの理 ― 共感力

前回に引き続き、相談場面で気づいたことを、メンタルヘルス通信にて語りました。



共感は、同情や、思いやりとは、どう違うのか?


他者のおかれた状況に、究極の想像力をもって、共感できるか?


そもそも自分の中に湧き上がる、さまざまな想いや考えを、見つめられるか?



以下のアドレスで、発信します。

http://www.lc-japan.com/gu/outside/bn_08.php

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2010年5月17日月曜日

エビデンス、それはローカルな知恵の一つ

エビデンスとは、何か?

その時代や文化で、専門家といわれる人々が、最先端のテクンロジーや知識、手法をもとに確認した、科学的事実。
しかし真実とは言い切れない。

確認された効果やメカニズムが、その時代を少しすぎれば、書き換えられることも多い。
西洋文明を共有する人口は、世界総人類の約70億中、いかほどだろうか?

そうすると科学的事実も、その時代、社会、一部の人々にとっての、ローカルな知恵、なのではないか?
ただし、それを追求する努力と志は、医療者としての使命ではある。

その人にとってのちょっとした信仰や、偶然としか言いようのない出会いがもたらす変化、
グループで語られたプロセスが図らずも共有されること。
きわめてローカルな語りと知恵の、効するときがある。


ローカルな知恵、それは、人類の歴史とともに積み上げられてきた文明の数、人生の数をこえてある。
地道に何千年と培われたローカルな知恵は、医療として古典化している。
エビデンス至上主義のもと、ローカルな知恵を排除すべきではない。

目の前の臨床的事態に、ローカルな知恵を適切に参照して処すること。
もちろんエビデンスも、ローカルな知識の一つとして。

(小森康永氏の著作、ナラティブ実践再訪を読んで)

2010年5月12日水曜日

カンファレンスの妙

問題がおきないと、人はなかなかに動かない
気付かないことが、問題を通じて露わにもなる
問題が、時に契機となり、思わぬ展開を呼ぶ

ある多職種多機関カンファレンスに、参加した
問題行動を起こした事例について、関係者が集まり、意見を述べ合った
これまでもなんだか?ではあったが、カンファするまでではなかったのも事実

一つの事例に、たくさんの大人が時間を割き、どう理解し、かかわったらよいか、知恵を絞る
もちろん、それぞれの現場で、苦労や困難が続いていたこと、
それぞれに、心配し、対処し、かかわろうとしていたことが共有される

参加者の立場や背景が、共感される
対立や主張から、協働の動きが、はじまる
さらにそのむこうは、事例に対する、異文化理解
同じ環境刺激やコミュニケーションの文脈が、ずいぶん違った様相で、理解されていたのかもしれない

とすれば、常識や固定観念を超えた、かかわりの工夫が、コミュニケーションの一歩となる
こうした相互対話から導かれる、理解と対処

事例を通して集った意味
話が「通じる」関係者に、お一人おひとりが格上げされる

まさしく、人生クラブの会員として

2010年4月26日月曜日

カウンセリング・マインドとは何か?

メンタルヘルス通信で、

「カウンセリング・マインド 3つの理」

について、語ります。



相談されたとき、どう処したらよいのか?

そもそも傾聴とは、何か?、

答えのない問いに、どう向き合うか?



まずは、想像力、について。



以下のページから、配信します。

http://www.lc-japan.com/gu/outside/m_h_tsushin.php

2010年4月22日木曜日

国立のぞみの園を歩いて

季節が変わろうとしている。
寒さと温かさが、あわただしく入れ替わる。
激しい変化の中、植物たちはたくましく芽を広げ、枝を伸ばす。

高崎市にある重度知的障害総合施設国立のぞみの園は、観音山という市を望む高台にある。
広大な敷地の中に、さまざまな草木とともに、寮や施設が点在する。
その診療所で、子供たちや障害を持つ方々の診療のお手伝いをはじめて、2年以上が過ぎた。

お昼休みに時間があると、ゆっくりと園内を歩いてみる。
すれ違う人も少なく、利用者さんの声が寮から響くくらいで、あとは野鳥のさえずりとともに、歩みを楽しむ。
さまざまに入り組んだ道や階段、遥かに望む上毛の山、路傍にテリトリーを争う山野草、夏には子供たちがはしゃいで虫を捕る。

ここでの臨床に、大学病院のような鬼気迫る待合や、5分間診療は似合わない。
ゆったりとした時間と空間が、最大の支援の資源だろう。
なるべく余裕をもって、ご家族と対話するよう心がけている。

園内のひそかな場所に、ある慰霊碑がたっている。
重い障害で先だった子どもたちを、いつくしみ、想い、その親ごさんたちが建てられたという。
この施設の歴史とともに、ひとりひとりの障害や、ともに歩んだ家族の思いが積み重なっている。

厚生労働省の独立行政法人が、事業仕訳の対象になっている。
今度、福島大臣がこの地を訪れ、視察をするという。
障害という言葉の向こうにある、縦横のひろがりや、一つ一つの生きざまを、ぜひ見つめてほしい。

これからの時期、山は桜の後、一気に新録へと向かう。






2010年4月19日月曜日

WorldShift HPより引用 (http://www.worldshift.jp/index.html)

『どうする、この世界を?』

地球的に持続可能で幸福で平和な道に向けた世界的な変化=ワールドシフト
100年に一度といわれる世界規模の金融・経済危機が世界を圧巻しています。また温暖化やエネルギー危機、食糧、水問題、今も続く戦争、テロ、年間約8000万人とも言われる世界人口の増加、 世界的な貧困、ホームレス、飢餓者の絶対数の増加、富める者と貧しい者の格差、富める国と貧しい国の格差の広がり.
相関し合うさまざまなマクロトレンドによって、今日の世界が根本的に持続不可能となり、人類は、現状の社会や環境に関するシステムの崩壊へと急速に向かっています。ノーベル賞受賞者、優れた宗教指導者など世界の賢人による社会提言をおこなってきたブダペストクラブは、 2009年9月9日、「緊急事態にある世界の情勢」(ブダペストクラブ宣言)を、ロンドンにて発表。http://www.clubofbudapest.org/

Earthday2010 WorldShift Forum
ワールドシフトとは、持続可能で平和な世界に向けての変革のことです。参加者はエゴや分断された関係を超えて、それぞれの視点で、ともにワールドシフトを宣言することでつながり、個人の気づきと社会のシフトを促していくことを目的としています。

The Global Marshall Plan
http://www.globalmarshallplan.org/index_eng.html

2010年4月16日金曜日

健康通信倶楽部(上毛新聞社)

健康通信倶楽部という、地元密着の健康案内メディアの取材を受けた。
http://www.jomo-news.co.jp/kenko-tsushin/
職場のうつについて、語った。

群馬大学附属病院と上毛新聞社の異業種コラボレーションだが、
別の視点でいえば、地域心理教育の試みともとれる。

取材に来られた編集長は、真摯なジャーナリスト。
ついつい自分のことをしゃべってしまう、そんな力のある方だった。

少しでも肯定的メッセージが伝わる内容になるだろうか?
期待してまっている。

以前寄稿したページが、ウエッブで閲覧できることを知った

児童青年期の「食」を巡る問題についての解説
http://www.jomo-news.co.jp/kenko-tsushin/kenko00104.html

取材された上毛新聞社企画課長、御山さんに感謝します

2010年4月9日金曜日

マインド・エコシステム

生態系、それをひしひしと感じつつ、私たち生物は存在しているはず。
庭木一つとっても、天候や灌水、ほかの植物との兼ね合いで、枯れもし、花を咲かせもする。
その理由は単一ではなく、目をかけすぎても、かえってよくなかったり。

われわれが働く時、一番大変なのは、実は「こころに処すること」かもしれない
人が集まれば、こころが集まる。
こころは単純ではなく、わかっているようで、一番難しい。

「こころの生態系(田坂広志氏)」ともいうべき、システムの変化
その中で波動のように広がる、善悪の想い
どう処するか?

わかりにくく、難しいから、
マニュアルに頼る、操作主義に走る
でも、それだけでは、壁にぶつかる

田坂氏いわく、ハンドリングでも、管理でもない
そこに在りつつ、マネージする
まずは自分のエゴから、また一つづつ、始めてみようか?

2010年3月24日水曜日

フィロソフィア・メディカ(中田力 氏、日本医事新報連載中)から受ける、深き薫陶

複雑系科学入門と題したコラムは、毎回刺激的で鋭く、世界を形作る原則へと、我われを導いてくれる。
こころに響くフレーズを、一部のみ引用する。
全文を読むべきなのはいわずもがな。

『複雑系自己形成の原則に従う大脳皮質は、自己を原点とする3次元空間の認知と経験により、発達成熟する。
ヒトは、自分が直接経験したことのない情報ですら扱える、「視点の移動」、という形而上学的情報操作能力を、前頭前野の賜物として、獲得する。
その時、開かれた系こそが適切な自己形成を生み、どのような視点からも客観性を保つ知性は、真摯な論理思考を裏付ける。
一例として、キュービズムは、絵画における相対性理論の提唱であり、視点の移動可能性の表れといえる。
これは、脳の高次機能をもって初めて具象化されるプロセスである。

近代医学は20世紀に誕生したが、「医療」は古典である。
古典医学は現場で獲得された経験側であり、古今東西問わず、人類共有の財産である。
医学が、いかように進歩しても、複雑系の産物である「生命」、この崇高で偉大な対象を、線形思考だけで解決できないのは明白であるのに。
もちろん近代物理学は、「ゆらぎ」を認めることで、決定論と万能という命題を棄てた。
医療における不確定性は、複雑系のもたらす予測不可能な行動に由来し、実際やってみないと結論は出せない。
しかし現場では、神にたずねるわけにいかず、医学エビデンスにもすべてをゆだねられない。
経験則は、必ず良い結果を生むとも限らない。
医師は神ではないが、単なる人間であっても責務が果たせない。
この立場は、教えられて理解できるものではない。
自分の無力さを知りつつ、直面する患者の苦悩をどうにかしなければならないジレンマに、何度も眠れない夜を過ごした経験から勝ち取るものである。
絶対為政者の愚行を抑えるのは、複雑系の偉大さを体で教え込まれた、こころのきれいな現場の臨床医しかいないだろう。』

最後の部分では、何度読みかえしても、「あついもの」が自然と込み上げてくる。

2010年3月15日月曜日

"Mom and dad, stop stifling me – it's damaging my brain" from the NEWSCIENTISTS

成田耕介氏のペーパーが、世界的ウエッブ情報のコラムに登場した。

NewScientist
http://www.newscientist.com/article/dn18633-mom-and-dad-stop-stifling-me--its-damaging-my-brain.html
11:35 11 March 2010 by Wendy Zukerman

Overprotective parents inhibit more than their kids' freedom: they may also slow brain growth in an area linked to mental illness.
Children whose parents are overprotective or neglectful are believed to be more susceptible to psychiatric disorders – which in turn are associated with defects in part of the prefrontal cortex.
To investigate the link, Kosuke Narita of Gunma University, Japan, scanned the brains of 50 people in their 20s and asked them to fill out a survey about their relationship with their parents during their first 16 years.
The researchers used a survey called the Parental Bonding Instrument (pdf), an internationally recognised way of measuring children's relationships with their parents. It asks participants to rate their parents on statements like "Did not want me to grow up", "tried to control everything I did" and "tried to make me feel dependent on her/him".

Neglectful dads
Narita's team found that those with overprotective parents had less grey matter in a particular area of the prefrontal cortex than those who had had healthy relationships. Neglect from fathers, though not mothers, also correlated with less grey matter.
This part of the prefrontal cortex develops during childhood, and abnormalities there are common in people with schizophrenia and other mental illnesses.
Narita and his team propose that the excessive release of the stress hormone cortisol – due either to neglect, or to too much attention – and reduced production of dopamine as a result of poor parenting leads to stunted grey matter growth.
Anthony Harris, director of the Clinical Disorders Unit at Westmead Hospital in Sydney, Australia, says the study is important for highlighting to the wider community that parenting styles can have long-term effects on children.

Parents to blame?
But he adds that such brain differences are not always permanent. "Many individuals show great resilience," he says.
Stephen Wood, who studies adolescent development at the Melbourne Neuropsychiatry Centre in Australia, says the brain abnormalities cannot necessarily be blamed on children's relationship with their parents. He points out that the subjects studied may have been born with the abnormalities and as a result didn't bond well with their parents, rather than vice versa.
Wood also takes issue with the study team's decision to exclude individuals with low socioeconomic status and uneducated parents – two factors known to contribute to poor performance in cognitive tests. "The effect they found may be real, but why worry about parenting if there are other factors that are so much larger?" he says.

Journal Reference: Progress in Neuro-Psychopharmacology and Biological Psychiatry, DOI: 10.1016/j.pnpbp.2010.02.025

さまざま、もちろん批判含めて、リアクションが来ているようだ。
今後の発展を、期待する。

2010年3月8日月曜日

摂食障害の医療費加算について

今回の中医協にて。
摂食障害に関する医療管理加算に関する新設に関して、初めて医療費が認められた。
「摂食障害入院医療費管理加算」という名目で、著しい体重減少が認められる摂食障害患者を対象に、入院30日目までは一日200点、31-60日までが一日100点という内容である。
施設基準などがあり、全ての治療者に認められたわけではないが、大きな一歩である。
関係諸氏の尽力に、こころより感謝申しあげる。

2010年3月1日月曜日

『坂戸 薫  遺稿集』への寄稿から --- 今、ふたたび

気分障害の診断、パーソナリティ、養育体験、そして5HTTに関して、世界的に優れた心理社会生物学的研究を行った坂戸先生が急逝したのは、3年前の3月であった。



たまたま古き絵葉書を整理していたら、彼がドイツ留学中に送ってくれた、クリスマスカードを見つけた。
「そろそろ爆発するつもりです」

と、彼らしい力強い大きな字で、書いてあった。



養育体験とうつ病の治療反応性や人格との関連を丹念に調査され、
そのむこうには、生物学的な相互連関をも射程に入れていた。
意気揚々と熊本に向かわれた矢先の、訃報であった。


奇しくも、群馬大精神科の成田耕介氏が、MRIを用いた脳構造解析と養育体験との連関を、世界で初めて報告する(Relationship of Parental Bonding Styles with Gray Matter Volume of the Dorsolateral Prefrontal Cortex in Young Adults. Progress in Neuro-Psychopharmacology & Biological Psychiatry, in press)。

天国で、喜び驚きつつも、競争心を燃やしておられるだろう。


やっと彼のことを、振り返れるようになった気がする。
当時思いつくまま書き連ねた文章を、彼を偲んで参照する。

坂戸薫先生の思い出(2007)

月曜日の朝に、奥様から坂戸先生の訃報をお電話でいただきました。そのとき、「いったいなにが、どうしたのか?」、すぐには理解できませんでした。奥様に同じことをくりかえし問いかけてしまい、大変な状況の時に、今考えるととても申し訳なく思います。
新潟大学で坂戸先生と苦楽をともにしたフェローの一人として、私が思い出すいくつかの記憶の断片やエピソードをご紹介し、氏を偲びたいと思います。

私は坂戸先生よりも入局年度が2年下になりますので、直接仕事をご一緒するようになったのは、私が県立病院研修から大学に戻った平成5年からです。当時佐藤哲哉先生が新潟市民病院を出られ、坂戸先生、川嶋義章先生と私で、精神科非常勤外来を担当いたしました。総合病院の精神科を本格的に経験するのは初めてで、様々不安がありました。坂戸先生からは総合病院特有の気分障害や不安障害などの診断評価や治療的対応について、手取り足取り面倒見てもらいました。市民病院をフィールドにし、佐藤哲哉先生の築かれた評価システムを修練しつつ、うつ病の評価、養育体験、人格などについて、実証的データを蓄積していきました。同時に、臨床研究というものの哲学と基礎を、佐藤先生、坂戸先生から叩き込まれました。この時期に、論文の読み方、書き方をはじめ、翻訳なども泊り込みで厳しい指導を受けました。坂戸先生は、一度心を許すフェローになると、本当に親身に、熱心に教えてくれます。でも、彼の価値観にあわず嫌った相手には、突き放したような厳しさときつい態度を示す強烈さを、それぞれ持ち合わせていました。これも彼の彼らしいところでした。お二人から教示されたことは、「よい研究をすれば世界で必ずきちんと評価される」「小手先の方法でなく、臨床研究の王道を目指せ」など、私にとっていまだテーマとなっている課題です。同時に、結果を出すことのうれしさ、研究デザインの大切さ、結果を治療やケアに生かすための道筋、周囲との摩擦や挫折、なども経験しました。数年して我々の研究が雑誌に発表されることが多くなり、上を目指す向上心や、さらによいものを作る野心も、お二人からいただきました。私も坂戸先生を模倣して、ストレスコーピングや評価尺度の研究を論文発表しましたが、統計解析手法、英文雑誌への投稿の仕方や返答など、ほとんどを彼から教えてもらいました。私の今があるのは、まずはお二人のおかげです。心底感謝しております。ちなみに、坂戸先生は最後まで、「佐藤哲哉グループ」を誰よりも愛していたと思います。

さて、坂戸先生はいろいろと誤解されることもありましたが、それは氏の毒舌によるところが大きいかもしれません。特に精神療法についてはしばしば諫言されていましたが、身近にいるものとしては若干屈折した印象も受けました。というのも隣で診察を聞いていると、正統な精神療法をされていることが多く、このことは彼の精神療法批判を聞きなれている方々にはあまり知られていない事実ではないでしょうか。病理の重い患者さんについても、「○×さんはしょうもないなー」「クラスターBはどうにもならんなー」などと、口ではあきらめたようなぼやきをおっしゃるのですが、実はきちんと面倒見ていて、彼特有の「言葉」と「態度」の違いが現れます。本当は優しさや一生懸命さがあるのに、照れ隠しと斜に構えたきつい言い方をしてしまう、それにより周囲からずいぶんと思い違いされていたことがあったかもしれません。しかし、そんなこともあまり気にせず、わが道を行くタイプの坂戸先生ではありました。
懐かしく楽しい思い出は、研究室の集まりでしょうか。平成7年ごろより第2研究室は、坂戸先生室長に、川嶋先生、私などが主なメンバーとなり、その年度に在籍した若手が加わり、折に触れて食事会(のみかい)を開きました。新潟の豊かな食を堪能し、精神医学議論に花を咲かせ、世界に向けた野心を語り会いました。若手には、佐藤哲哉グループの意気込みを、熱くかつ厳しく説いていました。坂戸先生は得意のプログレッシブロックを歌ったり、皆で夜の街に繰り出したり、かけがえのない輝きとほろ苦さの時代でした。

職場で彼と一緒の時間が多かったので、つまらない世間話もしました。私はどちらかというと調子に乗りやすく、またへこみやすいほうなので、ついつい先輩に愚痴をこぼしたりしておりました。平成10年ごろですが、当時は公私共苦境に置かれていたこともあって、こぼすことに事欠きませんでした。坂戸先生は、「自分はあんまりイライラしたり、気分に波はないなー。へっへっー」と笑っていました。たしかに、へこたれないというか、一貫したスタンスで仕事をしていた姿がよみがえります。後日談ですが、奥様と昔話をしていて、「家ではいろいろとあたったり、怒ったりすることもあったんですよ」とお聞きして、意外な感じでした。よほどのことでないと、私の前で声を荒げたりしませんでした。
ちなみに坂戸先生が結婚したときは、そんなそぶりもなかったので、とても驚きました。なにかにつけて「うちの奥さんはこう言ってたよ」と引き合いに出していましたから、随分と信じ頼っていたのでしょう(奥様はご存知ないかもしれません)。Hちゃんが生まれて、とても幸せそうでした。彼がドイツに留学中、私はすでに新潟を離れていましたが、時々国際電話が来ました。Hちゃんがあちらの幼稚園にどんどん慣れていることを、うれしそうに話していました。「それにくらべ、大人がドイツ語をこなすのは大変だ!」、などの苦労話や異文化談義を聞きつつ、ハイデルベルグでの体験は私にはうらやましい限りでした。

彼が視力に障害を抱え、苦労していたことは皆様もご存知でしょう。おそらく人に言えない悔しさや不安を感じていたはずです。しかし、私にそのことでくよくよ言うことはほとんどありませんでした。やはりいつもポジティブで、負けず嫌いで、前向きでした。でも、奥様やご家族には、本音のつらさをむけられていたのかもしれませんが。

坂戸先生の御通夜で、北村俊則先生がおくられた弔辞に、彼の生き様、業績、人柄などが、本当に的確に語られています。彼の目指してきた仕事が、人心の発達理解や健康向上に寄与していくだろう点について、あそこまできちんと評価してくださった上司に恵まれたことは、フェローの一人として心よりうれしく思いました。残された私たちは、彼の志を少しでも引き継いで、ちゃんとした仕事をしていくしかなかろう、と今は思っています。心より、坂戸薫先生のご冥福と、奥様、娘さんのご健康をお祈りします。

2010年2月17日水曜日

シーシェパード問題で揺れる今、ANZにどう向き合うか

SSによる海上テロが、激しさを増している
感情で世論が動くのは、洋の東西、緯度の南北を問わないようだ
原理主義的な考えと、進化の多様性
政治・利権・差別と、ヒトを含めた真の自然保護
弁証法的な止揚を望むのだが、、
いまのところ日本は、クールな反応
これが、いいことか?、わるいことか?
ANZには、良い面・悪い面、学ぶ点があるのも事実

2008年の過去コラムより、ふたたび
これは良い面として、お伝えします

「ラッド首相に見るリーダー像つれづれ」

「日本を公式訪問したオーストラリアのケビン・ラッド首相が9日、平和記念公園を訪れ、原爆慰霊碑に献花して原爆資料館を見学した。平和問題に関心を持つラッド首相の強い希望で決まった。首脳会談などのために初来日し、日程の第一弾として広島を訪れた。」(朝日新聞より)

ラッド首相は中国大使などの経歴から中国語も堪能で、親中派として知られている。アジア太平洋国家として、日本との関係は重視せざるを得ないだろうが、来日に際し、真っ先に広島を訪れたことには、かなり驚いた。また、このことを地上波で報じるTV局が少ないことにも、逆の驚きとさみしさを感じた。湾に紛れ込んだ動物などの話題や、NHKの不祥事が、堂々とフロントラインを飾っている、というのに。

 「爆心地中心を鳥瞰した展示の前では爆心地から約1キロの人はほとんど亡くなったという説明にうなずいていた。見学後に、(21世紀は)アジア・太平洋の平和の世紀とされる。廃虚となった街から世界は決意を新たにし、いつの日か核兵器廃絶を目指す共通の使命のために協力していきましょう、と記帳した」【Asahi.comより】

ラッド首相率いる労働党は、昨年十一月の総選挙で十一年ぶりに保守連合から政権を奪還した。直ちにハワード政権が拒んでいた京都議定書を批准した。環境問題に積極的に取り組む姿勢だが、これは豪国の干ばつ状況を見れば当たり前のアクションである。水不足はオーストラリアではいつでも身近で、シャワーの時間や庭の水まきには気を遣う。フラットの各部屋に、温水のタンクがあり、すぐさまそこをついてしまうこともある。ただし、このところの内陸部中心の干ばつは異常だ。穀物価格への影響は計り知れないし、農村部のダメージは強烈だ。環境そのものの破壊は、この乾いた大陸を襲っている。

 「一方トヨタは 現在は米国と中国だけのハイブリッド車の海外生産も拡大する方針で、オーストラリア新政権になって交渉が一気に進んだ。ラッド政権はハイブリッド車など低燃費車の普及に向け、開発・生産を支援するために総額五億豪ドル(約五百億円)の政府基金を新設した。トヨタは三千五百万豪ドルの補助金を受ける。」【中日新聞】

豪国の発電の状況を考えると、火力に依存する事情は隠すことができない。しかし、動こうとしている政権であることも、確かだ。そもそも彼に注目したのは、オーストラリアが長年抱えている、先住民族問題への取り組み姿勢にある。これは、衝撃的だった。アボリジニは、ようやっと平成5年に先住権が認められた。ラッド首相は今年2月、アボリジニに対する過去の植民地政策に対し初めて正式に謝罪した。先住民へのきわめて過酷で非人権的な白人化政策については、さまざまな映画や図書で表されている。私がキャンベラを訪れたときも、先住民の抗議の姿を見た。かのハーバーブリッジに掲揚される2つの旗も、時に応じ国旗や、アボリジニの旗が交互に風になびく。

「オーストラリアの先住民族・アボリジニの交流団が20日、白老町を訪れた。飴谷町長を表敬訪問した後、アイヌ民族博物館で開かれた先住民フォーラムに出席。アイヌ民族と「先住民」をテーマに語り合った。北海ウタリ協会の加藤忠理事長が「近く先住民族の認知に向け、政府に要請する」とアイヌ民族の現状を説明、アボリジニ側も理解を示した。きょう21日は舞踊公演などで交流する。協会理事長は、ラッド首相のアボリジニに対する公式謝罪などオーストラリア先住民政策に感動しているとした上で「アボリジニと同じし烈な迫害を受け、私たちアイヌも同じ環境で生活してきた。人権が尊重されるよう私たちは22日にはアピール行動で政府にもの申したい」と話した。これに対しアボリジニは「まず、先住民族として認めることで素晴らしい国になる。アイヌと国が良い関係になってほしい」と切望、アイヌ民族の行動に理解を示した。アボリジニは「子供のころ、服がなく学校に行くにも大変だった」と思い出を話す人も。だが「仕事の面など、まだ生活は楽ではない。今までは隠れていたが、これからは社会に出ていく」と話し、厳しい現状からの脱却を説明した。」(室蘭民報より)

ここで私が紹介したい映画、本は、rabbit proof fence(裸足の1500マイル)である。
http://www.gaga.ne.jp/hadashi/wnew.html
実話をもとにして、アボリジニの村から強制的に連れて行かれた子供たちが脱走して村へと裸足で歩いて帰るという内容だが、そのカメラワークや、音楽、力強さに、各映画賞が評価を与えた。わたしも、たどたどしい英語力で、原著を買って、パースからシドニーに向かうドメスティック機中で読んだ思い出がある。

さて、5月にはニュージーランド(NZ)のヘレンクラーク首相が来日した。BSインタビューで、やはり環境問題とそれにリンクするテクノロジー産業の強調に、力強く紳士に答えていた姿が印象深い。ここでも地上波の一般ユースには報じられず、パンダやNHK不祥事ニュースに隠れていた。彼女のしたたかで、かつ揺るがない視線に、NZの先進性と住みやすさの一端を垣間見た気がする。
もう少し、メディアも、国民も、観光だけでなく、オーストラリア・ニュージーランドの政治に目を向けて良い気がするのだが。
(2008)

2010年2月8日月曜日

「NPO法人地域精神保健福祉機構・コンボ」からご案内

■ご案内1:「こころの元気+」セミナー・シンポジウム「精神障害者」の呼称と表記を考えるシンポジウム~「障害者」から「障碍者」へ。さらに… ~  &精神障害者自立支援活動賞(リリー賞)表彰式
○日時:2010年2月20日(土)13:00~17:00○会場:都市センターホテル コスモスホールⅡ
http://www.toshicenter.co.jp/access/index.html
○定員:300名○参加費用:無料

■ご案内2:こころのバリアフリー研究会 設立記念講演会~ 『21世紀へのチャレンジ こころのバリアフリー』
現代社会における精神障害者への偏見・差別からのバリアフリーを考えよう!!
○日時:2010年2月14日(日)13:30~16:00(13時開場)○場所:丸ビルコンファレンススクエア8F Room4東京駅丸の内南口より徒歩1分
http://www.tokyoipo.com/event/map/marubiru.htm

2010年2月5日金曜日

過去コラムより、ふたたび―苦闘する仲間との対話を通して気づくこと

問題児や障害児の作り上げられ方:私たちの職場や周囲でも簡単に見つかるかもしれません
 
クラスで何か問題を起こす子、ところがその子は誰もが目をつぶり、誰かが言いたかったことを、行動にして素直に反抗したり、要求しているだけだったりすることはないだろうか。家族や親族の中で、あいつは問題だ、お前がまたか、などといわれる異端児は、これまでの硬直した家風やら、がんじがらめのしがらみから単に自由に生きている人間らしい人だったりもする。時に、それぞれが所属する(すんでいる)人々の中で、なんかへんだ、これはおかしい、でもみんな我慢している、みんなはうまくやっている、こうすれば?こういう見方もあり?といった意見や行動をする人々は、時に「病気」、時代によっては「障害」、場合によって「狂気や魔女」として、迫害や、偏見や、抹殺されてきた。実は、彼らを攻め立てている人の中にも、ひそかに存在している考えや欲求を投影する対象として、自分で自分を押さえ込むようにして、厳しく槍玉に挙げられる。こうした動きは、様々な映画や物語で語られてきた。

実は同様な事態は、見渡せば我々の所属する職場や地域、仲間内にも簡単に見出すことができる。


一つの逸話を紹介しよう。知人Dr.Hの病院では、地域の中核を担うがゆえに重度・専門のケースが多く来院するという。しかし、外来は雑多な事例で混雑する。それが悪いと一概に言えないが、彼の言うには「きょうは仕事が休みなので、予約外でどうしても見てほしい」と半年ぶりに電話依頼するものの病状は緊急性にとぼしいケース、「薬だけ出してほしい」と突然夕方訪れるケース、安定していて地域の開業クリニックにお願いしたいケース、予約制なのに全く度外視して受付で無理を強いるケース、などなど、本当に専門医の診察が必要なのか?数少ない専門医の時間や労力を、必要なケースに集中してかかわれないジレンマ、を抱えているという。おまけに、かかってくる電話や問い合わせに、いちいち診察中によびだされ、集中力が途切れ、ケースへ向けていた配慮や技法が台無しになってしまう、こんなこともざらにあるそうだ。

そうした専門性を、内部的にはどのように受けとめ、サポートしているのか、ぜひ知りたくなった。ところが、である。会議はなんと世間話に毛の生えた議論に終始し、働きやすいシステムを話し合う余地はないそうだ。おまけに「医長は朝から晩まで頑張っているのだから、皆もやれて当然」「大変なのは、みんな同じ。事務受付が悪いのではないし、それぞれのスタッフもそれなりにやっている」といった具合で、それぞれが今の悪循環をなかんずく受け入れ、それぞれの滅私奉公の頑張りにのみに終始しているらしい。たとえば、システムを変え、多少のご不便やご不満も受け入れつつ、きちんとした流れを作り、医師が専門性を十分に担保される環境でミスの起こりにくい、かつユーザーも納得のいく医療を受けられる工夫や、ソフト・ハードの整備へと、そんな話合いができないだろうか?と質問してみた。そんなことを提案したら大変なことになる、という。「またあいつができもしないことをいっている」「そんなわがままを言ってもはじまらない」「できもしないことをいうだけむだ」「問いあえず問題のないようにやれるだけのことをやっていればよい」「ちょっとあいつは変なんじゃない」そのうちに「ボーダーラインン(*)の行動化だよ、例のバイポーラー(**)の始まりだ」、などなどレッテルや診断づけがされ、彼は組織のマイノリティーと化すわけだ。

さあ、これは上で見た、クラスにおける問題児の作り上げられ方、家族におけるスケープゴートの出現、地域における障害者の立場、世界における異文化の受け止め方、などなどにも通じる視点であるわけだ!そして、かれはなんと、外来構造変革を唱えているという。たとえば、午後を専門、院内、至急の受け付けに絞り、午前に慢性安定例を見る枠を作る、ただ忙しく何かをやっている、というのが良しでなく、ここで必要なニーズを見極める、という簡単なことを提言したらしいのだ。ただし、大いなるレッテルを張られ、その組織を追い出される寸前にあるという。

ここで、尊敬する同年代の有志、Dr.Sとのやりとりで、彼のコメントに、あまりに心打たれたため、ここに一部紹介する。(内容は、固有名詞を避け、多少プライバシーに触れないよう脚色している)。彼は、医師のリクルートなどにも一時関与された経験がおありだ。

“40歳前後の中堅指導層,臨床の腕も留学経験も業績も人望もあり,そうした人ゆえ診療教育研究運営の中でもみくちゃになり「辞めなければ死んでしまう,しかし開業して研究を離れるのも口惜しい」という見解で、転職希望された方がある所には大勢いらっしゃる.「先生のような方が抜けたら患者,部下同僚が困りませんか」と問うと、異口同音に「そうだとしてももう限界」という答え.良心的な中堅医師がそこまで追い詰められていることを大学も社会もmass mediaも否認し続けている。”

“Blair政権下でUK政府は政策を転換し,医療費を増やし、医学部を新設した。それでも、英国で漏れ聞いた医師の待遇は日本よりもましでしたが.日本は医療よりも原子力,高速道路,国防費を死守する国であることが明らかな今,滅私奉公は短期的には患者のためにならなくはないにせよ,現状の黙認に資するとよく思います.“

“先例墨守,閉鎖性と独善,鎖国攘夷の体質においては公立病院、国立大学法人、私学など大差ないと思われます.大学の制度疲労,lack of management,古色蒼然たる鎖国的mentalityは、大同小異です.崩壊していく国,文化,医療とともに在るのは運命として他に選択肢はなく,せめて崩壊の速度を少しでも遅くし,崩壊が多少なりともless harmfulであるように貢献するのが我々の世代の務めでしょうか.“

障害や問題を、いかに解決や対処に変容するか、そうした文脈を作り上げる仕事をする我々自身が、こんな状況にあるということは、悲劇であり、喜劇でもある。
(2008)


*ボーダーライン:境界例。「神経症的な仮面をかぶった精神病」という病態認識ののち、不安定で空虚、衝動的な心的・行動的特徴を示す一群が、境界性人格として位置付けられた。それら事例の人格構造は、同一性の拡散、原始的な防衛機制、表面的な現実検討保持、という特徴を示す。

**バイポラー:双極性障害の略称。躁とうつを繰り返す気分の変調を主とする病状。軽い躁の場合、通常の状態と区別しにくい。

2010年2月3日水曜日

所属学生の診療は、附属病院で特別扱いするべきか?

久しぶりに、憤り、怒りが込み上げてきた。
それは、想像力が欠如し、倫理を置き忘れた、象牙の塔に居る人々に。

けがをした人々を運ぶ船に、乗るスペースは限られている。
一人ひとりの船頭は、必死に櫓をこいでいる。
早くしろ、私を乗せろ、どうしてもっと舟がないのだ!

足首をけがした青年は、付き添う偉い人の一言で、順番をくりあげ、舟に乗る。
「この子に何かあったらどうするのだ」、という論理により。
しかし、船を待つ人々の多くは、毎晩手を切り、複雑な病を抱え、中には子供やお年寄りもいる。
青年は、予約を待てないほどのけがなのか?
ほかの船着き場に、導いてやれないのか?
それまで持ちこたえられないのは、お偉いさんの不安や恐怖のせい?責任回避?

舟は、そこに住むみんなのためにつくられた、数少ない場所。
間違っても、船会社に勤める人を優遇しないはず。

どこかの国の、医療崩壊に似た姿。
こうして、善意と常識を持つ船乗りは、罵倒され、疲労困憊し、どこかの陸地に去っていく。

2010年2月1日月曜日

”マイノリティー”感と「病」の体験---過去コラムより、ふたたび

マイノリティーとは、社会的少数者を指し示す訳語である。ニュアンスとしては、社会的な弱者や少数派意見をも包含しているだろう。個人的な主義主張から述べることは、あまり本意でないが、自らの拠って立つ位置や社会的姿勢というものが、様々な揺れ動きの中から、「マイノリティー」という意識に集約されてきた感がある。というのも、若輩の頃より感じていた「マジョリティー」への居心地悪さに加え、majorであろうとする社会的個人的活動(いわゆるキャリアアップ)の中で、ひそかな違和感が咽喉につかえていたことにも一つ源泉があるようだ。そもそも精神医療や精神医学が、内科や外科と同じように認知され、それ以上に社会にとって必須であることを声高に啓発する動きに対し、賛同しつつもどこかで斜に構える自分がいたことに、いまさらながら思いが到る。

「病」そのものは、きわめて主観的な体験であり、その障害や疾病が世の中でいかにメジャー、かつありふれているかを、統計的数値で示されたとて、その個人にとっての心細さや不安や苦悩が消えるわけではない。ガンが日本人の死因の第1位で、ほとんどの日本人はガンに罹患する、という事実があったとて、自分がガンになって感じる恐怖や、世界から隔絶される孤独は、ひとり一人固有の体験である。ガンはメジャーな病気だが、ガンを抱えることはきわめてマイナーな体験なのである。換言すると、「病」とはイコール心理的少数派を体験することであり、病者にはマイノリティーとしての視線や姿勢が、必然として現前化する。

これは、ただでさえスティグマが強く、理解のしがたい病である精神科的疾患やこころの問題に関しては、きわめて端的に言えることである。精神科や臨床心理学にかかわるものが多かれ少なかれ抱く不安やら孤独やらは、こうしたマイノリティーの意識と切り離すわけにはいくまい。援助する側の専門家は、反動形成かもしれないが、医学や社会に対し、メジャー化の動きへと励む時期がある。これはノーマライゼーションにむけて専門家が行うべき必然的な要請でもあるが、マイノリティーとしての懼れが幾許か関係していると言えなくもない。

当事者が受ける不安や苦悩は、この想像を超えるものであろう。故に、携わる援助者は、あたりまえのこととして、マイノリティー感への親和性が要求される。畢竟、マイノリティーであることを止揚し、もしくはそうしたあり方をどう受け止めるか、が問われることになる。

家族療法の大家ミニューチンは、「コミュニケーションは差異である」と述べた。白地がなければ、黒い字は何も伝えない。メジャーは、マイナーが存在して初めてマジョリティーになりうる。内容でなく、違いこそがヒトの関係性を構築する。とすれば、コミュニケーションできる哺乳類“人類”にとって、マイノリティーにこそ存在価値があるのかもしれない。ヒトを意義付ける要素を色濃く内包しているのが“マイノリティー“感であり、それに拠って立った視線ではないだろうか。言葉を変えれば、多様性であり、成熟社会の在り様、ということでもあるが。

結局、マイノリティーであることに、自信とまでは行かなくとも、当たり前の肯定感を持ち、マイノリティーとしてのしなやかなレジリアンスを意味づける姿勢こそ、我々「こころの専門家」が目指す一つの哲学ではないか、と夢想するのである。(2007)

2010年1月25日月曜日

「自傷行為の理解と援助」の講演後に、めぐる思い

自傷そのもののインパクト、ひとつのリストカットから受ける感覚や衝撃、
それは、やはり大きい。

そんな時、私たちに、否認、畏恐、忌避、怒り、そして、無視が、うずまく。
さまざまなエゴや強がりが、周囲の我々に、訪れる。
そんな時、健常や常識人といわれる人は、道徳論や理想論を語り、説くことで、決着をつけるかもしれない。
そうした傷が意味すること、伝えること、そして私たち自身の心におきることは、なにか。
深く対峙することでしか、支援の道筋はうまれない。

これは、たった一つの出来事、たった一人との出会いでさえ、起きてしまうこと。
深く見つめねば、過ぎてしまうことかもしれない。
それが、もし大多数で生じたとき、マスとして統計であらわされるとき、何が私たちに伝わるだろう。
数字として、ハイチの被害者が10万人以上とわかった今、たった一つの写真の中にある、傷ついた少女のうつろな目以上のことを、私たちは想像できるか?
多くの傷ついた体の映像に、一つ一つのインパクトは、かすんでしまうかもしれない。
さらに、その向こうにあるはずの、心の痛みは、数字でまとめられてしまったら、どう感じ、考えればいいのだろう。

麻痺したようにながれる、メディアの言葉。

私たちは、冷静なマスの目線を持ちつつも、一人ひとりから受け取るミクロの姿から、体験を想像する営みを忘れずにいたい。

2010年1月8日金曜日

分科会『非行・衝動性』へのお誘い

心理教育・家族教室ネットワークが、13回目の全国研究集会を迎える。
この会の創始は、家族心理教育やEE研究を通じた家族支援にかかわる、さまざまな立場の『専門家、初心者、当事者』が、情報交換や普及啓蒙を目的に、ゆるやかなネットワークを目指して集った時代にある。
いわば、mutual support groupの拡大版、といったニュアンスの会でもある。

毎年、参加者はうなぎ上りである。
今年の久留米大会も、盛りだくさんの内容だ。

遊佐安一郎氏、有賀道生氏、大江美佐理氏という講師のもとに、私もオーガナイザーとして参加する。

お誘いの気持ちを込めて、案内文を転載する。

心理教育の広がりを、「縦横」に見渡してみる。
ある疾患や障害に絞った展開を「横」とするなら、すでにエビデンスが蓄積されている統合失調症はじめ、気分障害や摂食障害への支援がそこにある。
今回の分科会では、いわば「縦」の視点で、心理教育の実践と有効性を共有したいと思う。
「衝動性」をキーワードとして、少年院における非行少年に対する心理教育的かかわりの実際を有賀道生氏(国立のぞみの園)に、大学病院における衝動行為に対する思春期青年期ケースへの意欲的試みを大江美佐里氏(久留米大学)に、それぞれご紹介いただく。
お二人の発表を受けて、遊佐安一郎氏(心理技術研究所、元長谷川病院)には、衝動性に対する弁証法的行動療法(dialectical behavioral therapy)のポテンシャルと、心理教育に応用するためのヒントを導いていただく。
参加者の力を得て、ぜひ、何かを感じるセッションにしたい。

2010年1月6日水曜日

思春期の非行をめぐる、有賀道生 氏のモノローグより

「社会的問題となって現れる非行が、どんな意味を持ち、我々に何を伝えようとしているのか、周囲は何ができるか、何をすべきか」という重い問いを、冒頭から私たちに投げかける言説。

下に紹介した「現代のエスプリ(509号)」から、ぜひ届けたい。

氏は、背景にある複雑なトラウマと、発達上の傷つき、自己救済の手段とも言える薬物使用への流れを、臨床体験とエビデンスをもとに描き出す。
その言説から、心に残ったいくつかを、紹介する。

「虐待を受けた彼らの問題行動は、生きていくためのわずかな望みをかけた心の叫びの様な気がする。非行少年に親のことをどう思っているか尋ねると、多くが『好きです』と答える。どんなにひどい仕打ちを受けたとしても、『好き』という言葉が届かないことを知っていても」

「薬物依存におちいった彼らが願うのは、どう薬物を止めるかというよりも、どうやって生きていけばいいか、生きる価値とは何か、という問い」

「彼らは、ばらばらになったパズルのピースの海いるよう。それを元通りにしようとするが、どうにもならずあきらめ、つながった何かを見つけると、また誰かに壊される。ある瞬間、壊れていない部分が見つかると、わずかな希望が芽生える。この一部をともに見つけ、わずかの希望を持ち続けるべく、支えること」

支援の力を、こう締めくくる。

彼は、志のある、我がフェローである。

そのことに、深い喜びと、誇りを、感じる。

2010年1月4日月曜日

曖昧問題に向き合う-中田力 氏の「フィロソフィア・メディカ」に学ぶ

世界は、実にあいまいなものである。
最新物理学や、ポストモダン社会学が、それを示し諭すように。

尊敬してやまない中田力 先生が、日本医事新報に寄稿している「フィロソフィア・メディカ‐複雑系科学入門」を、毎回心待ちにしている。
若き修業時代、邂逅をいただいたときの印象は、衝撃的であった。
これが、天才というものなのか。
自分の思考が、小さな虫の歩み、に思えた。
一方で、魂をこめて、臨床への熱意と人への優しさも、語られた。
先生の研ぎ澄まされた語り口調や、厳しくも温かい表情を思い起こしつつ、拝読する。

「現代社会は、すべての干渉系が非線形行動を起こすことを前提として、容認できる近似の中で成立している。複雑系の最前線にいる我々は、“曖昧問題”を認めることで、なんとか正しい方向に歩みを進める」

「絶対基準や正解のない中で、古来より人が真摯に物事を考える態度を、哲学と呼ぶ。人は哲学を持ちつつも、それを神格化せず、揺らぎを認め、個々の人間に主権を保持してきた」

「しかし、答えのない問いを求めるなかで、非線形運動を可能にした『小脳』と、哲学する脳である『前頭前野』を持つヒトが、いつからか暴走し始めた」

「物理学と哲学のかい離により、おのおのの正当性と存在価値が空論化している」

これは医療と医学のかい離にも影響していると、示唆される。

「個々の人間が、医師になるという決断過程の中で真摯な思考を重ね、臨床現場で日々悩むことにより、哲学を成熟させることができるという伝統が、今、失われている」、と言う。

「自然界にある形態は、『法則』と『環境』により、自己形成される」

それは、まるで雪の結晶のように。

「同様に、DNA遺伝情報をすべて読んでも、人は理解できない。そこには、規則の記載しかなく、自己組織化された結果は、作ってみないとわからない」

今の医療崩壊や、マネー資本主義の破綻、グローバリズムの限界、ひいては地球環境問題には、共通する二律背反、二項対立がはらんでいるように、思う。

最先端の人類は、これらの矛盾に直面することによって、実は哲学と科学の新たな創生へ、向かっているのかもしれない。

2010年1月1日金曜日

Happy New Year 2010

静かな、新年である。

7年前、真夏のシドニーで、正月を迎えた。

今はyou tubeで、花火の様子がリアルに体験できる。

世界の無意識は、確実に近づきつつあるようだ。

今年も、拙いながら、所作を問い続けていきたい。

Please visit this web to find a beautiful photo "Sydney NYE fireworks" by L Plater.