2010年2月17日水曜日

シーシェパード問題で揺れる今、ANZにどう向き合うか

SSによる海上テロが、激しさを増している
感情で世論が動くのは、洋の東西、緯度の南北を問わないようだ
原理主義的な考えと、進化の多様性
政治・利権・差別と、ヒトを含めた真の自然保護
弁証法的な止揚を望むのだが、、
いまのところ日本は、クールな反応
これが、いいことか?、わるいことか?
ANZには、良い面・悪い面、学ぶ点があるのも事実

2008年の過去コラムより、ふたたび
これは良い面として、お伝えします

「ラッド首相に見るリーダー像つれづれ」

「日本を公式訪問したオーストラリアのケビン・ラッド首相が9日、平和記念公園を訪れ、原爆慰霊碑に献花して原爆資料館を見学した。平和問題に関心を持つラッド首相の強い希望で決まった。首脳会談などのために初来日し、日程の第一弾として広島を訪れた。」(朝日新聞より)

ラッド首相は中国大使などの経歴から中国語も堪能で、親中派として知られている。アジア太平洋国家として、日本との関係は重視せざるを得ないだろうが、来日に際し、真っ先に広島を訪れたことには、かなり驚いた。また、このことを地上波で報じるTV局が少ないことにも、逆の驚きとさみしさを感じた。湾に紛れ込んだ動物などの話題や、NHKの不祥事が、堂々とフロントラインを飾っている、というのに。

 「爆心地中心を鳥瞰した展示の前では爆心地から約1キロの人はほとんど亡くなったという説明にうなずいていた。見学後に、(21世紀は)アジア・太平洋の平和の世紀とされる。廃虚となった街から世界は決意を新たにし、いつの日か核兵器廃絶を目指す共通の使命のために協力していきましょう、と記帳した」【Asahi.comより】

ラッド首相率いる労働党は、昨年十一月の総選挙で十一年ぶりに保守連合から政権を奪還した。直ちにハワード政権が拒んでいた京都議定書を批准した。環境問題に積極的に取り組む姿勢だが、これは豪国の干ばつ状況を見れば当たり前のアクションである。水不足はオーストラリアではいつでも身近で、シャワーの時間や庭の水まきには気を遣う。フラットの各部屋に、温水のタンクがあり、すぐさまそこをついてしまうこともある。ただし、このところの内陸部中心の干ばつは異常だ。穀物価格への影響は計り知れないし、農村部のダメージは強烈だ。環境そのものの破壊は、この乾いた大陸を襲っている。

 「一方トヨタは 現在は米国と中国だけのハイブリッド車の海外生産も拡大する方針で、オーストラリア新政権になって交渉が一気に進んだ。ラッド政権はハイブリッド車など低燃費車の普及に向け、開発・生産を支援するために総額五億豪ドル(約五百億円)の政府基金を新設した。トヨタは三千五百万豪ドルの補助金を受ける。」【中日新聞】

豪国の発電の状況を考えると、火力に依存する事情は隠すことができない。しかし、動こうとしている政権であることも、確かだ。そもそも彼に注目したのは、オーストラリアが長年抱えている、先住民族問題への取り組み姿勢にある。これは、衝撃的だった。アボリジニは、ようやっと平成5年に先住権が認められた。ラッド首相は今年2月、アボリジニに対する過去の植民地政策に対し初めて正式に謝罪した。先住民へのきわめて過酷で非人権的な白人化政策については、さまざまな映画や図書で表されている。私がキャンベラを訪れたときも、先住民の抗議の姿を見た。かのハーバーブリッジに掲揚される2つの旗も、時に応じ国旗や、アボリジニの旗が交互に風になびく。

「オーストラリアの先住民族・アボリジニの交流団が20日、白老町を訪れた。飴谷町長を表敬訪問した後、アイヌ民族博物館で開かれた先住民フォーラムに出席。アイヌ民族と「先住民」をテーマに語り合った。北海ウタリ協会の加藤忠理事長が「近く先住民族の認知に向け、政府に要請する」とアイヌ民族の現状を説明、アボリジニ側も理解を示した。きょう21日は舞踊公演などで交流する。協会理事長は、ラッド首相のアボリジニに対する公式謝罪などオーストラリア先住民政策に感動しているとした上で「アボリジニと同じし烈な迫害を受け、私たちアイヌも同じ環境で生活してきた。人権が尊重されるよう私たちは22日にはアピール行動で政府にもの申したい」と話した。これに対しアボリジニは「まず、先住民族として認めることで素晴らしい国になる。アイヌと国が良い関係になってほしい」と切望、アイヌ民族の行動に理解を示した。アボリジニは「子供のころ、服がなく学校に行くにも大変だった」と思い出を話す人も。だが「仕事の面など、まだ生活は楽ではない。今までは隠れていたが、これからは社会に出ていく」と話し、厳しい現状からの脱却を説明した。」(室蘭民報より)

ここで私が紹介したい映画、本は、rabbit proof fence(裸足の1500マイル)である。
http://www.gaga.ne.jp/hadashi/wnew.html
実話をもとにして、アボリジニの村から強制的に連れて行かれた子供たちが脱走して村へと裸足で歩いて帰るという内容だが、そのカメラワークや、音楽、力強さに、各映画賞が評価を与えた。わたしも、たどたどしい英語力で、原著を買って、パースからシドニーに向かうドメスティック機中で読んだ思い出がある。

さて、5月にはニュージーランド(NZ)のヘレンクラーク首相が来日した。BSインタビューで、やはり環境問題とそれにリンクするテクノロジー産業の強調に、力強く紳士に答えていた姿が印象深い。ここでも地上波の一般ユースには報じられず、パンダやNHK不祥事ニュースに隠れていた。彼女のしたたかで、かつ揺るがない視線に、NZの先進性と住みやすさの一端を垣間見た気がする。
もう少し、メディアも、国民も、観光だけでなく、オーストラリア・ニュージーランドの政治に目を向けて良い気がするのだが。
(2008)

2010年2月8日月曜日

「NPO法人地域精神保健福祉機構・コンボ」からご案内

■ご案内1:「こころの元気+」セミナー・シンポジウム「精神障害者」の呼称と表記を考えるシンポジウム~「障害者」から「障碍者」へ。さらに… ~  &精神障害者自立支援活動賞(リリー賞)表彰式
○日時:2010年2月20日(土)13:00~17:00○会場:都市センターホテル コスモスホールⅡ
http://www.toshicenter.co.jp/access/index.html
○定員:300名○参加費用:無料

■ご案内2:こころのバリアフリー研究会 設立記念講演会~ 『21世紀へのチャレンジ こころのバリアフリー』
現代社会における精神障害者への偏見・差別からのバリアフリーを考えよう!!
○日時:2010年2月14日(日)13:30~16:00(13時開場)○場所:丸ビルコンファレンススクエア8F Room4東京駅丸の内南口より徒歩1分
http://www.tokyoipo.com/event/map/marubiru.htm

2010年2月5日金曜日

過去コラムより、ふたたび―苦闘する仲間との対話を通して気づくこと

問題児や障害児の作り上げられ方:私たちの職場や周囲でも簡単に見つかるかもしれません
 
クラスで何か問題を起こす子、ところがその子は誰もが目をつぶり、誰かが言いたかったことを、行動にして素直に反抗したり、要求しているだけだったりすることはないだろうか。家族や親族の中で、あいつは問題だ、お前がまたか、などといわれる異端児は、これまでの硬直した家風やら、がんじがらめのしがらみから単に自由に生きている人間らしい人だったりもする。時に、それぞれが所属する(すんでいる)人々の中で、なんかへんだ、これはおかしい、でもみんな我慢している、みんなはうまくやっている、こうすれば?こういう見方もあり?といった意見や行動をする人々は、時に「病気」、時代によっては「障害」、場合によって「狂気や魔女」として、迫害や、偏見や、抹殺されてきた。実は、彼らを攻め立てている人の中にも、ひそかに存在している考えや欲求を投影する対象として、自分で自分を押さえ込むようにして、厳しく槍玉に挙げられる。こうした動きは、様々な映画や物語で語られてきた。

実は同様な事態は、見渡せば我々の所属する職場や地域、仲間内にも簡単に見出すことができる。


一つの逸話を紹介しよう。知人Dr.Hの病院では、地域の中核を担うがゆえに重度・専門のケースが多く来院するという。しかし、外来は雑多な事例で混雑する。それが悪いと一概に言えないが、彼の言うには「きょうは仕事が休みなので、予約外でどうしても見てほしい」と半年ぶりに電話依頼するものの病状は緊急性にとぼしいケース、「薬だけ出してほしい」と突然夕方訪れるケース、安定していて地域の開業クリニックにお願いしたいケース、予約制なのに全く度外視して受付で無理を強いるケース、などなど、本当に専門医の診察が必要なのか?数少ない専門医の時間や労力を、必要なケースに集中してかかわれないジレンマ、を抱えているという。おまけに、かかってくる電話や問い合わせに、いちいち診察中によびだされ、集中力が途切れ、ケースへ向けていた配慮や技法が台無しになってしまう、こんなこともざらにあるそうだ。

そうした専門性を、内部的にはどのように受けとめ、サポートしているのか、ぜひ知りたくなった。ところが、である。会議はなんと世間話に毛の生えた議論に終始し、働きやすいシステムを話し合う余地はないそうだ。おまけに「医長は朝から晩まで頑張っているのだから、皆もやれて当然」「大変なのは、みんな同じ。事務受付が悪いのではないし、それぞれのスタッフもそれなりにやっている」といった具合で、それぞれが今の悪循環をなかんずく受け入れ、それぞれの滅私奉公の頑張りにのみに終始しているらしい。たとえば、システムを変え、多少のご不便やご不満も受け入れつつ、きちんとした流れを作り、医師が専門性を十分に担保される環境でミスの起こりにくい、かつユーザーも納得のいく医療を受けられる工夫や、ソフト・ハードの整備へと、そんな話合いができないだろうか?と質問してみた。そんなことを提案したら大変なことになる、という。「またあいつができもしないことをいっている」「そんなわがままを言ってもはじまらない」「できもしないことをいうだけむだ」「問いあえず問題のないようにやれるだけのことをやっていればよい」「ちょっとあいつは変なんじゃない」そのうちに「ボーダーラインン(*)の行動化だよ、例のバイポーラー(**)の始まりだ」、などなどレッテルや診断づけがされ、彼は組織のマイノリティーと化すわけだ。

さあ、これは上で見た、クラスにおける問題児の作り上げられ方、家族におけるスケープゴートの出現、地域における障害者の立場、世界における異文化の受け止め方、などなどにも通じる視点であるわけだ!そして、かれはなんと、外来構造変革を唱えているという。たとえば、午後を専門、院内、至急の受け付けに絞り、午前に慢性安定例を見る枠を作る、ただ忙しく何かをやっている、というのが良しでなく、ここで必要なニーズを見極める、という簡単なことを提言したらしいのだ。ただし、大いなるレッテルを張られ、その組織を追い出される寸前にあるという。

ここで、尊敬する同年代の有志、Dr.Sとのやりとりで、彼のコメントに、あまりに心打たれたため、ここに一部紹介する。(内容は、固有名詞を避け、多少プライバシーに触れないよう脚色している)。彼は、医師のリクルートなどにも一時関与された経験がおありだ。

“40歳前後の中堅指導層,臨床の腕も留学経験も業績も人望もあり,そうした人ゆえ診療教育研究運営の中でもみくちゃになり「辞めなければ死んでしまう,しかし開業して研究を離れるのも口惜しい」という見解で、転職希望された方がある所には大勢いらっしゃる.「先生のような方が抜けたら患者,部下同僚が困りませんか」と問うと、異口同音に「そうだとしてももう限界」という答え.良心的な中堅医師がそこまで追い詰められていることを大学も社会もmass mediaも否認し続けている。”

“Blair政権下でUK政府は政策を転換し,医療費を増やし、医学部を新設した。それでも、英国で漏れ聞いた医師の待遇は日本よりもましでしたが.日本は医療よりも原子力,高速道路,国防費を死守する国であることが明らかな今,滅私奉公は短期的には患者のためにならなくはないにせよ,現状の黙認に資するとよく思います.“

“先例墨守,閉鎖性と独善,鎖国攘夷の体質においては公立病院、国立大学法人、私学など大差ないと思われます.大学の制度疲労,lack of management,古色蒼然たる鎖国的mentalityは、大同小異です.崩壊していく国,文化,医療とともに在るのは運命として他に選択肢はなく,せめて崩壊の速度を少しでも遅くし,崩壊が多少なりともless harmfulであるように貢献するのが我々の世代の務めでしょうか.“

障害や問題を、いかに解決や対処に変容するか、そうした文脈を作り上げる仕事をする我々自身が、こんな状況にあるということは、悲劇であり、喜劇でもある。
(2008)


*ボーダーライン:境界例。「神経症的な仮面をかぶった精神病」という病態認識ののち、不安定で空虚、衝動的な心的・行動的特徴を示す一群が、境界性人格として位置付けられた。それら事例の人格構造は、同一性の拡散、原始的な防衛機制、表面的な現実検討保持、という特徴を示す。

**バイポラー:双極性障害の略称。躁とうつを繰り返す気分の変調を主とする病状。軽い躁の場合、通常の状態と区別しにくい。

2010年2月3日水曜日

所属学生の診療は、附属病院で特別扱いするべきか?

久しぶりに、憤り、怒りが込み上げてきた。
それは、想像力が欠如し、倫理を置き忘れた、象牙の塔に居る人々に。

けがをした人々を運ぶ船に、乗るスペースは限られている。
一人ひとりの船頭は、必死に櫓をこいでいる。
早くしろ、私を乗せろ、どうしてもっと舟がないのだ!

足首をけがした青年は、付き添う偉い人の一言で、順番をくりあげ、舟に乗る。
「この子に何かあったらどうするのだ」、という論理により。
しかし、船を待つ人々の多くは、毎晩手を切り、複雑な病を抱え、中には子供やお年寄りもいる。
青年は、予約を待てないほどのけがなのか?
ほかの船着き場に、導いてやれないのか?
それまで持ちこたえられないのは、お偉いさんの不安や恐怖のせい?責任回避?

舟は、そこに住むみんなのためにつくられた、数少ない場所。
間違っても、船会社に勤める人を優遇しないはず。

どこかの国の、医療崩壊に似た姿。
こうして、善意と常識を持つ船乗りは、罵倒され、疲労困憊し、どこかの陸地に去っていく。

2010年2月1日月曜日

”マイノリティー”感と「病」の体験---過去コラムより、ふたたび

マイノリティーとは、社会的少数者を指し示す訳語である。ニュアンスとしては、社会的な弱者や少数派意見をも包含しているだろう。個人的な主義主張から述べることは、あまり本意でないが、自らの拠って立つ位置や社会的姿勢というものが、様々な揺れ動きの中から、「マイノリティー」という意識に集約されてきた感がある。というのも、若輩の頃より感じていた「マジョリティー」への居心地悪さに加え、majorであろうとする社会的個人的活動(いわゆるキャリアアップ)の中で、ひそかな違和感が咽喉につかえていたことにも一つ源泉があるようだ。そもそも精神医療や精神医学が、内科や外科と同じように認知され、それ以上に社会にとって必須であることを声高に啓発する動きに対し、賛同しつつもどこかで斜に構える自分がいたことに、いまさらながら思いが到る。

「病」そのものは、きわめて主観的な体験であり、その障害や疾病が世の中でいかにメジャー、かつありふれているかを、統計的数値で示されたとて、その個人にとっての心細さや不安や苦悩が消えるわけではない。ガンが日本人の死因の第1位で、ほとんどの日本人はガンに罹患する、という事実があったとて、自分がガンになって感じる恐怖や、世界から隔絶される孤独は、ひとり一人固有の体験である。ガンはメジャーな病気だが、ガンを抱えることはきわめてマイナーな体験なのである。換言すると、「病」とはイコール心理的少数派を体験することであり、病者にはマイノリティーとしての視線や姿勢が、必然として現前化する。

これは、ただでさえスティグマが強く、理解のしがたい病である精神科的疾患やこころの問題に関しては、きわめて端的に言えることである。精神科や臨床心理学にかかわるものが多かれ少なかれ抱く不安やら孤独やらは、こうしたマイノリティーの意識と切り離すわけにはいくまい。援助する側の専門家は、反動形成かもしれないが、医学や社会に対し、メジャー化の動きへと励む時期がある。これはノーマライゼーションにむけて専門家が行うべき必然的な要請でもあるが、マイノリティーとしての懼れが幾許か関係していると言えなくもない。

当事者が受ける不安や苦悩は、この想像を超えるものであろう。故に、携わる援助者は、あたりまえのこととして、マイノリティー感への親和性が要求される。畢竟、マイノリティーであることを止揚し、もしくはそうしたあり方をどう受け止めるか、が問われることになる。

家族療法の大家ミニューチンは、「コミュニケーションは差異である」と述べた。白地がなければ、黒い字は何も伝えない。メジャーは、マイナーが存在して初めてマジョリティーになりうる。内容でなく、違いこそがヒトの関係性を構築する。とすれば、コミュニケーションできる哺乳類“人類”にとって、マイノリティーにこそ存在価値があるのかもしれない。ヒトを意義付ける要素を色濃く内包しているのが“マイノリティー“感であり、それに拠って立った視線ではないだろうか。言葉を変えれば、多様性であり、成熟社会の在り様、ということでもあるが。

結局、マイノリティーであることに、自信とまでは行かなくとも、当たり前の肯定感を持ち、マイノリティーとしてのしなやかなレジリアンスを意味づける姿勢こそ、我々「こころの専門家」が目指す一つの哲学ではないか、と夢想するのである。(2007)