2010年2月1日月曜日

”マイノリティー”感と「病」の体験---過去コラムより、ふたたび

マイノリティーとは、社会的少数者を指し示す訳語である。ニュアンスとしては、社会的な弱者や少数派意見をも包含しているだろう。個人的な主義主張から述べることは、あまり本意でないが、自らの拠って立つ位置や社会的姿勢というものが、様々な揺れ動きの中から、「マイノリティー」という意識に集約されてきた感がある。というのも、若輩の頃より感じていた「マジョリティー」への居心地悪さに加え、majorであろうとする社会的個人的活動(いわゆるキャリアアップ)の中で、ひそかな違和感が咽喉につかえていたことにも一つ源泉があるようだ。そもそも精神医療や精神医学が、内科や外科と同じように認知され、それ以上に社会にとって必須であることを声高に啓発する動きに対し、賛同しつつもどこかで斜に構える自分がいたことに、いまさらながら思いが到る。

「病」そのものは、きわめて主観的な体験であり、その障害や疾病が世の中でいかにメジャー、かつありふれているかを、統計的数値で示されたとて、その個人にとっての心細さや不安や苦悩が消えるわけではない。ガンが日本人の死因の第1位で、ほとんどの日本人はガンに罹患する、という事実があったとて、自分がガンになって感じる恐怖や、世界から隔絶される孤独は、ひとり一人固有の体験である。ガンはメジャーな病気だが、ガンを抱えることはきわめてマイナーな体験なのである。換言すると、「病」とはイコール心理的少数派を体験することであり、病者にはマイノリティーとしての視線や姿勢が、必然として現前化する。

これは、ただでさえスティグマが強く、理解のしがたい病である精神科的疾患やこころの問題に関しては、きわめて端的に言えることである。精神科や臨床心理学にかかわるものが多かれ少なかれ抱く不安やら孤独やらは、こうしたマイノリティーの意識と切り離すわけにはいくまい。援助する側の専門家は、反動形成かもしれないが、医学や社会に対し、メジャー化の動きへと励む時期がある。これはノーマライゼーションにむけて専門家が行うべき必然的な要請でもあるが、マイノリティーとしての懼れが幾許か関係していると言えなくもない。

当事者が受ける不安や苦悩は、この想像を超えるものであろう。故に、携わる援助者は、あたりまえのこととして、マイノリティー感への親和性が要求される。畢竟、マイノリティーであることを止揚し、もしくはそうしたあり方をどう受け止めるか、が問われることになる。

家族療法の大家ミニューチンは、「コミュニケーションは差異である」と述べた。白地がなければ、黒い字は何も伝えない。メジャーは、マイナーが存在して初めてマジョリティーになりうる。内容でなく、違いこそがヒトの関係性を構築する。とすれば、コミュニケーションできる哺乳類“人類”にとって、マイノリティーにこそ存在価値があるのかもしれない。ヒトを意義付ける要素を色濃く内包しているのが“マイノリティー“感であり、それに拠って立った視線ではないだろうか。言葉を変えれば、多様性であり、成熟社会の在り様、ということでもあるが。

結局、マイノリティーであることに、自信とまでは行かなくとも、当たり前の肯定感を持ち、マイノリティーとしてのしなやかなレジリアンスを意味づける姿勢こそ、我々「こころの専門家」が目指す一つの哲学ではないか、と夢想するのである。(2007)

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