2009年11月30日月曜日

Ken Doneのポップな絵


2000年のシドニー・オリンピックで、開会式、閉会式のプログラムのデザインを手がけた。
部屋にパノラマの公式複製を飾っているが、一瞬ハーバーに居るような風が吹いてくる。

2009年11月27日金曜日

2003年末の日記から、ふたたび

私が豪留学から帰国した2003年は、イラク戦争が勃発し、人々がテロの危険におびえていた。
世界が分断に向かう、まっただなかにあった。
その時の日記に、こう記してある。

しばらく、日本を離れている。外から見ると、祖国はやたらと世相が悪い。海外チャンネルから聞こえてくるニュースは、天変地異と猟奇的犯罪ばかりのような感覚に陥った。
日本ばかりでなく周りを見渡すと、どうやら世界は分断に向かっているようである。中途半端な動きでは収まらない、システム全体の変化は必然のようだ。
而して日々の営みは、日常の名のごとく、同じような関わり合いの繰り返しで成立している。結局、人間は人と交わることでしか存在し得ない。内的な自我を概念化したこと自体、他者なしでは自己を規定できないことを自明にしている。
生きている現実は、人々が紡ぎだす音楽のようだ。ベルリンフィルの指揮者ラトルは、音楽は、「決して一人ぼっちではない」というコミュニケーションである、と述べている。コミュニケーションは「差異」を伝え合う様式であると、心理学者ベイトソンは定義する。
東と西、白と黒、男と女、それらの差異こそが伝え合うものであり、永遠に奏でられ続けられる音楽なのだろう。そこには、当然いくばくかの物語が生まれる。
世界が、そうした差異の意味を子供たちに伝え、それらの意義を奏でられたら、とひそかに願っている。

2009年11月25日水曜日

立花隆 氏のNHK番組「思索ドキュメント がん 生と死の謎に挑む」

なかなかに、深く考えさせられる番組であった。ガン細胞は、生命進化そのものである、というアンチテーゼ。

ワインバーグ教授(MIT)いわく「生きていること自体がガンを生む」。生体は毎日計り知れない何億という細胞の再生を繰り返し、体と意識を一貫して保っている。その際、細胞のコピーミスがちょっとでも起きると、ガン細胞になる。

「ミスが起きないこと自体が、奇跡」

RAS(がん遺伝子)が異常を起こすと、再生情報が暴走し、増殖が止められない。がん遺伝子は厖大な数があり、その全体像をひとりの研究者が捉えることさえ不可能という。

「複雑系の様相、まるで宇宙そのもの。」

「分子標的薬」は異常信号を抑えることを目的に開発されたが、がん細胞は機能を学び、違うルートで再生を続ける。分子標的薬は、効き目を失う。ガンは防御法を次々と考えて、薬の裏をかく。

「創発と組織化」

進化の過程で重要な働きを持つ遺伝子「HIF-1」、ガン細胞にたくさん存在する。これは、酸素が行き届かない、低酸素領域で働く。HIF-1は低酸素でも生き残れる能力、移動する能力を身につける。転移と浸潤の力。「ガンは低酸素に順応、生き残ったガン細胞は、放射線や抗がん剤にも抵抗する強力な細胞になる。(セメンサ教授、ジョンホプキンス大)」

「実は、生命が原始のころから有している、進化の源とも言えるのが、このHIF-1」

ジョンソン教授の実験では、HIF-1が無い胎生ラットは、細胞がバラバラになり死んでしまう。胎生初期、生体は低酸素状態で、細胞が分化するにはHIF-1が必要。酸素を必要とする生物が、進化の過程で獲得した遺伝子なのであった。HIF-1は海と陸を行き来した動物には極めて重要で、進化の中で、ずっと保存してきた。

「生命の歴史が作ったものがHIF-1、それがガン細胞も作っている」

がんは進化で獲得した遺伝子を多数有している。3万年前の恐竜にもガン細胞が発見され、あらゆる生物のガンには同じ遺伝子が使われているという。

免疫とがんについて、ポラード教授(アルバートアインシュタシイン医科大)がマクロファージの働きを説明する。ガンの組織の中には、マクロファージが大量に集まってくる。しかし、マクロファージはそれを食するのではなく、ガン細胞の移動を手助けしている。一見、裏切りを行なうマクロファージ。しかしマクロファージは、本来の機能を果たしているに過ぎない。通常、マクロファージは傷口を修復するために集まり、移動や成長を促す物質を放出する。同じことがガン組織でも行なわれ、マクロファージに導かれるようにガン細胞が移動する。

「生命保持の力そのものが、ガンをはぐくむという、矛盾」

クラーク博士(スタンフォード大学)によれば、ガン幹細胞を移植したラットのみで、がん細胞が増殖した。抗がん剤は「ガン幹細胞」には効かない。ガン幹細胞は、通常の「幹細胞」に極めてよく似ている。ガン幹細胞を攻撃すると、幹細胞を破壊してしまうかも。

IPS細胞の研究者である、山中教授(京都大学)の話も興味深い。IPS細胞の最大の問題は、がん化の懸念であり、IPS幹細胞とがん幹細胞の違いは紙一重でもある。命を再生するIPS細胞と、命をうばうがん細胞は、極めて接近している。

「人は、イモリやヒトデの様に体を再生することをあきらめることで、生殖年代までガン化をなるべく防ぐ手立てを選択したのではないか」

ヒトが選択した進化の道、長寿によって必然として明らかになる、ガン。

立花氏いわく、「人類の半分はガンになる。1/3がガンで死ぬ。ガンはDNAの病気で、生命維持・存続の仕組みそのものに、ガンが由来する。では、生命とは何か?」

そして、こう言う。「人間は、死ぬ力を持っている。ジタバタしないで生きることが、ガンを克服するということではないだろうか。」

http://www.nhk.or.jp/special/onair/091123.html

2009年11月21日土曜日

マインドフル、ふたたび‐‐‐Eating Mindfully(星和書店)の訳者あとがきから

生きとし生けるものにとり、「食する」ことは生存をかけた根源的な行動といえます。原始的な生命体から人間に至るまで、食物を求めることは本能で規定されています。地球上で絶え間ない「食うか、食われるか」の営みを見れば、その厳しさは言わずもがなでしょう。自らの何倍も大きな動物を飲み込む爬虫類、食物を確保し繁殖に適した地をもとめ地球を一周近く移動する鳥類、昆虫を食する植物など、元来そこに存在するのは、生きるか死ぬかをかけた壮絶な姿です。食と食行動が、生物にとって根本的テーマといわれる所以はそこにあるといえます。
 さて人間も哺乳類の一種ですが、他と大きく違うのは、言語と思考能力を持ち、自我という概念で内的な世界を構築できるところにあります。加えて、遊び楽しむ能力を持つことも、人間の人間たる大きな要素であるといえるでしょう。フランスの文化史家ヨハン・ホイジンハは、人間を「ホモルーディエンス(遊ぶ存在)」と呼んでいます。この能力は、文化や文明を形成する基盤の一つになっているのです。
 こうした面から人間と食との関係を見ると、人間にとって「食する」ことは短に生命維持の本能的行動ではなく、遊び楽しむ側面があることは明白です。人間は食を文化とし、食をレジャーとしています。昨今のグルメブームを見れば、お分かりいただけることでしょう。さらに人は食をコミュニケーションの手段とし、社会的な儀礼として位置付けています。冠婚葬祭、晩餐会、歓送迎会など、食を囲んでさまざまな会話が弾み、長い歴史の中で培われ伝統として育まれている食もあります。また人は、食を健康管理のために利用し、さらには「食しないこと」で何かを伝えるすべさえ生み出しました。さまざま健康食ブーム(フードファディズム)や、ダイエット、さらにはハンガーストライキなど。これらはいずれも、大きな大脳連合野と前頭葉を持つ人間だからこそ可能になった、いわば「食にかかわる高次機能」といえましょう。
本書で指摘されているマインドレスな食事は、こうした「高次機能」を有する人間であるがゆえに生じうる顕著な例と言えます。過激なダイエットや気晴らし喰いといったマインドレスな食行動の裏には、人間特有の豊かで複雑な食との関係をすべて無視したり、過剰に支配しようとする傲慢さに満ちていたり、大切な人とのかかわりをも失ってしまう危険をはらんでいます。当然、本来の目的である栄養補給や健康な身体を維持するという役割をも蝕み、まるで心と体が、「人のようで人でないもの」に変わってしまう可能性があるのです。
本書が提唱するマインドフルな食事、マインドフルな食との関係は、もういちど人間らしさを取り戻し、人間らしい心、人間らしい体をよみがえらせる方法とも言えるのではないでしょうか。脳科学的にいえば、大脳辺縁系(本能)で食べるのではなく、また大脳皮質で過剰にコントロールして(考えすぎて)食べることでもありません。脳も体も十分稼動しつつ、かつそれらの発するメッセージを捉え、それに従い、今ここでの瞬間を実感しながら食べるということを、著者は推奨しています。これは、激流のごとき日常に生きるわれわれにとって、まさしく見失っているあり方かもしれません。本書は、単に健康な食をめざす自習書ではなく、心と体、思想と感情の4側面から、人間らしさを取り戻す指南書とも言えるのです。是非多くの方に読んでいただき、日々のストレスフルな生活の中で自分を取り戻すために、「マインドフルな食」を生かしていただきたいと、訳者の一人として切に願っています。

2009年11月18日水曜日

はなれてみて、ふたたび‐‐平成19年度同窓会誌への寄稿より

大学病院で精神科を続けるわけ-その困難とよろこび 

母校の医局を離れて、すでに8年以上が経過いたしました。年に一度同窓会誌を手に取るときは、懐かしく新潟時代が蘇ります。同時に、先生方の寄稿を拝読し自らの不勉強を戒めたりいたします。ちなみに本誌に拙文を寄せるのは、入局時の自己紹介以来です。医局でお世話になっていた当時は、自分のことばかりに集中していた未熟者でしたから、はたしてテーマに沿った内容を語る資格が自分にあるのか?甚だ汗顔ものです。しかし、母校の教室が若者たちの声で沸きかえるべく、何かのお役に立つことを願って、この依頼をお引き受けしました。ただし、私のようなあちこち関心の移ろい易い人間でも、何とか大学病院精神科でやっていけるという一点において、少々を語ることしかできませんが。

 私は精神科医としてのキャリアを、大学病院でほとんどすごしています。しかし、働きやすいと思ったことは、残念ながらあまりありません。それでも、様々な専門家や触発される知見との出会い、医学生との交流、困難なケースから受ける刺激、研究や新規な事象への親和性、ある種の使命感などが、私を大学に留めておくのかもしれません。(実は最近、人前でしゃべることもそれほど嫌いではないことに気づきました。)

 大学が法人化し、会議で出る話題は「経営のスリム化」や「接客意識の向上」、「タイムスケジュールの入力」、「教員評価」などばかり。かつてサロンのごとき、若い人たちとともに「文化」や「病」や「脳」を語ったような、場所や時間がはなはだ減少しています。教育にかかる比重が増えることは好ましいのですが、予備校講師さながらの授業が高く学生に評価され、精神科のような「ようわからん」分野のわからなさを語る授業は、とても分が悪いわけです。昨今、学生も「学問」ではなく「勉強」するために医学を学んでおり、そもそも受け狙いの準備ができないくらい業務が増えています(研修医指導は煩雑なれども、それはそれでいろいろな先生に出会えるメリットはありますが)。臨床業務上は、対応が難しい事例や「患者さん絶対数」の集中が待ったなしで、病院の疲弊と瓦解はすでに周知の事態です。収益に寄与しにくく、稼働率や在院日数軽減でも厳しい立場にある精神科では、人手も予算も削られる運命を感じつつ肩身の狭い日々をすごしています。

こんなことばかりでは、魅力にはなりません!しかし、大学には換え難い位置づけがあるはずです。回顧主義ではなく、かつてのような様々な考えとポリシーを持った先輩同僚若者たちとの相互交流の場。尊敬を持ちつつも、コンペティティブに競い高め合う場。経済は潤わずとも、人生の拡がりの初端と遭遇する場。その教室ならではの雰囲気や伝統、そして学派とも言うべきたたずまいに触れること。これはキャリア形成の中核で、文化にとっての風土とも言い換えられるでしょう。発達になぞれば、「家族」であり「コミュニティ」でもあります。そもそも大学では金はいただけないけれどアカデミズムを論議する余裕や文化があり、そこで触れる先達の姿とディスクールを通して、精神科医としてのアイデンティティや誇り、時にはアクティングアウトやエディプスを向けつつも、無形の影響を受ける場でありました。その教室で受けついだ伝統やスタイルが、礎のところで自分を支えているのです。一方でビジネスモデルに浮かれた輩が声高に叫ぶ中、研究がややもすると商主義化し,さらには作為体験化したら、大学に居る必然はありません。なぜなら、大学の魅力の一つは主体的な研究ができることにある、と思うからです。ちなみに研究はしなくてもいい「こと」ですが、研究経験が臨床や人生に与える影響は少なくありません。もちろん苦悩ばかりで、負のインパクトが大きい場合もありましょう。それはそれで、人生の一時期を彩る季節であり、少なくとも無駄の意味を知る貴重な経験になるはずです。

大学に居るおかげで獲た個人的に最大の幸運は、留学の機会に恵まれたことです。摂食障害の国際学会発表の際に座長をしていただいた縁で、シドニー大学のPierre Beumont教授に出会い、渡豪のお誘いをいただきました。Peter(英語名)はこの業界で知らぬ者はいない大御所でしたし、場所もオーストラリアですから、留学が決まったときの喜びは、それまでの人生で最も幸せを感じた一瞬でした。着いた早々ご夫妻にオペラハウス(祝!世界遺産登録)の観劇に誘っていただきましたが、晴れ渡った青い空、初夏の風、湾の美景、ハーバーブリッジの勇姿、今もあの感激と喜びが鮮やかに残っています。写真1は、私が滞在後半に過ごした部屋から眺めたラベンダーベイの景色です。シドニーの生活は忘れがたく、とても幸せで楽しかったので、今でもつらいときはよくプチ解離などして懐かしみます。もちろん日本の精神医療や大学システムとの違い、言葉の壁など、慣れない体験や挫折も数々ありました。おまけに、後半にPeterが急病で倒れ救命救急に運ばれ、私の帰国間近に永眠されたのです。葬儀に出席したとき、奥様や彼の仲間が私のことまで心配してくれました。いまさらですが、彼が紹介してくれた臨床理論、彼と語った文化論などが、強烈に蘇ってまいります。なお、「脳と精神の医学」(2003)にも、拙文留学記が掲載されておりますので、よろしければご覧いただけると幸いです。ちなみに、シドニーでは愛妻と愛娘まで授かり、私もバチェラーからすっかり家庭人に変容いたしました。

さて、今私の関心事は、児童精神医学にあります。この領域の重要性は今に始まったわけではありませんし、新潟では薄田先生や小泉先生をはじめとする先達の伝統を引き継いで、着実に活動されていると伺っております。群馬の地でも、遅まきながら小児精神科開設へニーズが高まる機運にあります。何事でも、新しく「こと」を立ち上げる苦労に代わる面白さはありません。診察室の確保から協働可能な人材のリクルート、事務折衝を含め、ようやっと「こどものこころの診察」が細々とスタートしています。これも遅きに失していますが、自分自身が育児の最中にあるせいでしょうか、子供の発達にかかわる魅力をリアルに共有しています。彼らが自分らしく生きていける大人や社会でありたい、という灯明を旨に、大学という場で私なりに踏ん張っています。ただし、いつまでここにいられるか、本誌が出る頃にはどこかに転出しているかも、等々はなはだ心もとないわけです。こうした状況ですので、これからも同窓の皆様にお世話いただく機会が多々あろうかと思います。その節は、ご指導どうぞよろしくお願いいたします。末筆ですが、同窓会員の先生方と新潟大学医学部精神医学教室の発展をお祈りいたします。(2008年春刊行)

2009年11月16日月曜日

石川遼 君のインタビューに学ぶ

先週のツアーで、4位と健闘した石川君
賞金王に関する質問に、こんなことを答えていた
「今回、うれしいショットは3つありました。これらは、大きな収穫でした。
一方で、最後のパットがカップにかすらなかったことに、今の課題が示されています。
今日はとても良い天候でしたが、途中激しい雨や風など、このコースはすごい経験をさせてくれた。
こんな中で、コースのコンディションを保ってくれた、関係者・スタッフに感謝します。」
素直で謙虚、しかし過剰に卑下したり、自信過剰になることもなく、良い面は肯定的に、課題は的確に把握している。
彼のスキルやパワーのすごさでだけではなく、メンタリティとパーソナリティーに、瞠目を禁じえない。

2009年11月12日木曜日

ダライラマ法王のシンポジウムに参加して‐知識・情報・啓蒙による専門家への過剰なニーズ集積から、一部の幻想的奇跡願望に耐えうるまなざしへの示唆

ダライラマ法王、ごくごく自然体で、当たり前のことを率直に、参加者と同じ目線で語りかけられた。
心のどこかで、ものすごい、凡人とは違う方に会えるのではと、カリスマ的な体験を期待していた、自分に気付いた。
頭上のライトに赤いバインダーをかぶり、カメラを気にせずお薬をお飲みになり、トラブルを笑って受け流す。
宗教指導者も、われわれと同じ、生身の人間であることが、やっとわかった。
そこで語られた言葉に、目新しさや気張ったところはないが、一緒に同じ地球に住んでいる、そして何とかしていける、というメッセージに聞こえた。
世界の期待や注目を受ける中で、ありのままの自分で居られること、そこに素晴らしさがあるのかもしれない。

2009年11月9日月曜日

Ken Duncan


Ken Duncanの写真は、とても素晴らしい。
オーストラリアの自然という素材が、見る者を惹きつけるという事実は、リアルなそれらを体験することで、さらに圧倒的なインパクトを余韻させる。
(HPのフリー写真より引用)