2009年11月18日水曜日

はなれてみて、ふたたび‐‐平成19年度同窓会誌への寄稿より

大学病院で精神科を続けるわけ-その困難とよろこび 

母校の医局を離れて、すでに8年以上が経過いたしました。年に一度同窓会誌を手に取るときは、懐かしく新潟時代が蘇ります。同時に、先生方の寄稿を拝読し自らの不勉強を戒めたりいたします。ちなみに本誌に拙文を寄せるのは、入局時の自己紹介以来です。医局でお世話になっていた当時は、自分のことばかりに集中していた未熟者でしたから、はたしてテーマに沿った内容を語る資格が自分にあるのか?甚だ汗顔ものです。しかし、母校の教室が若者たちの声で沸きかえるべく、何かのお役に立つことを願って、この依頼をお引き受けしました。ただし、私のようなあちこち関心の移ろい易い人間でも、何とか大学病院精神科でやっていけるという一点において、少々を語ることしかできませんが。

 私は精神科医としてのキャリアを、大学病院でほとんどすごしています。しかし、働きやすいと思ったことは、残念ながらあまりありません。それでも、様々な専門家や触発される知見との出会い、医学生との交流、困難なケースから受ける刺激、研究や新規な事象への親和性、ある種の使命感などが、私を大学に留めておくのかもしれません。(実は最近、人前でしゃべることもそれほど嫌いではないことに気づきました。)

 大学が法人化し、会議で出る話題は「経営のスリム化」や「接客意識の向上」、「タイムスケジュールの入力」、「教員評価」などばかり。かつてサロンのごとき、若い人たちとともに「文化」や「病」や「脳」を語ったような、場所や時間がはなはだ減少しています。教育にかかる比重が増えることは好ましいのですが、予備校講師さながらの授業が高く学生に評価され、精神科のような「ようわからん」分野のわからなさを語る授業は、とても分が悪いわけです。昨今、学生も「学問」ではなく「勉強」するために医学を学んでおり、そもそも受け狙いの準備ができないくらい業務が増えています(研修医指導は煩雑なれども、それはそれでいろいろな先生に出会えるメリットはありますが)。臨床業務上は、対応が難しい事例や「患者さん絶対数」の集中が待ったなしで、病院の疲弊と瓦解はすでに周知の事態です。収益に寄与しにくく、稼働率や在院日数軽減でも厳しい立場にある精神科では、人手も予算も削られる運命を感じつつ肩身の狭い日々をすごしています。

こんなことばかりでは、魅力にはなりません!しかし、大学には換え難い位置づけがあるはずです。回顧主義ではなく、かつてのような様々な考えとポリシーを持った先輩同僚若者たちとの相互交流の場。尊敬を持ちつつも、コンペティティブに競い高め合う場。経済は潤わずとも、人生の拡がりの初端と遭遇する場。その教室ならではの雰囲気や伝統、そして学派とも言うべきたたずまいに触れること。これはキャリア形成の中核で、文化にとっての風土とも言い換えられるでしょう。発達になぞれば、「家族」であり「コミュニティ」でもあります。そもそも大学では金はいただけないけれどアカデミズムを論議する余裕や文化があり、そこで触れる先達の姿とディスクールを通して、精神科医としてのアイデンティティや誇り、時にはアクティングアウトやエディプスを向けつつも、無形の影響を受ける場でありました。その教室で受けついだ伝統やスタイルが、礎のところで自分を支えているのです。一方でビジネスモデルに浮かれた輩が声高に叫ぶ中、研究がややもすると商主義化し,さらには作為体験化したら、大学に居る必然はありません。なぜなら、大学の魅力の一つは主体的な研究ができることにある、と思うからです。ちなみに研究はしなくてもいい「こと」ですが、研究経験が臨床や人生に与える影響は少なくありません。もちろん苦悩ばかりで、負のインパクトが大きい場合もありましょう。それはそれで、人生の一時期を彩る季節であり、少なくとも無駄の意味を知る貴重な経験になるはずです。

大学に居るおかげで獲た個人的に最大の幸運は、留学の機会に恵まれたことです。摂食障害の国際学会発表の際に座長をしていただいた縁で、シドニー大学のPierre Beumont教授に出会い、渡豪のお誘いをいただきました。Peter(英語名)はこの業界で知らぬ者はいない大御所でしたし、場所もオーストラリアですから、留学が決まったときの喜びは、それまでの人生で最も幸せを感じた一瞬でした。着いた早々ご夫妻にオペラハウス(祝!世界遺産登録)の観劇に誘っていただきましたが、晴れ渡った青い空、初夏の風、湾の美景、ハーバーブリッジの勇姿、今もあの感激と喜びが鮮やかに残っています。写真1は、私が滞在後半に過ごした部屋から眺めたラベンダーベイの景色です。シドニーの生活は忘れがたく、とても幸せで楽しかったので、今でもつらいときはよくプチ解離などして懐かしみます。もちろん日本の精神医療や大学システムとの違い、言葉の壁など、慣れない体験や挫折も数々ありました。おまけに、後半にPeterが急病で倒れ救命救急に運ばれ、私の帰国間近に永眠されたのです。葬儀に出席したとき、奥様や彼の仲間が私のことまで心配してくれました。いまさらですが、彼が紹介してくれた臨床理論、彼と語った文化論などが、強烈に蘇ってまいります。なお、「脳と精神の医学」(2003)にも、拙文留学記が掲載されておりますので、よろしければご覧いただけると幸いです。ちなみに、シドニーでは愛妻と愛娘まで授かり、私もバチェラーからすっかり家庭人に変容いたしました。

さて、今私の関心事は、児童精神医学にあります。この領域の重要性は今に始まったわけではありませんし、新潟では薄田先生や小泉先生をはじめとする先達の伝統を引き継いで、着実に活動されていると伺っております。群馬の地でも、遅まきながら小児精神科開設へニーズが高まる機運にあります。何事でも、新しく「こと」を立ち上げる苦労に代わる面白さはありません。診察室の確保から協働可能な人材のリクルート、事務折衝を含め、ようやっと「こどものこころの診察」が細々とスタートしています。これも遅きに失していますが、自分自身が育児の最中にあるせいでしょうか、子供の発達にかかわる魅力をリアルに共有しています。彼らが自分らしく生きていける大人や社会でありたい、という灯明を旨に、大学という場で私なりに踏ん張っています。ただし、いつまでここにいられるか、本誌が出る頃にはどこかに転出しているかも、等々はなはだ心もとないわけです。こうした状況ですので、これからも同窓の皆様にお世話いただく機会が多々あろうかと思います。その節は、ご指導どうぞよろしくお願いいたします。末筆ですが、同窓会員の先生方と新潟大学医学部精神医学教室の発展をお祈りいたします。(2008年春刊行)

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