2010年1月25日月曜日

「自傷行為の理解と援助」の講演後に、めぐる思い

自傷そのもののインパクト、ひとつのリストカットから受ける感覚や衝撃、
それは、やはり大きい。

そんな時、私たちに、否認、畏恐、忌避、怒り、そして、無視が、うずまく。
さまざまなエゴや強がりが、周囲の我々に、訪れる。
そんな時、健常や常識人といわれる人は、道徳論や理想論を語り、説くことで、決着をつけるかもしれない。
そうした傷が意味すること、伝えること、そして私たち自身の心におきることは、なにか。
深く対峙することでしか、支援の道筋はうまれない。

これは、たった一つの出来事、たった一人との出会いでさえ、起きてしまうこと。
深く見つめねば、過ぎてしまうことかもしれない。
それが、もし大多数で生じたとき、マスとして統計であらわされるとき、何が私たちに伝わるだろう。
数字として、ハイチの被害者が10万人以上とわかった今、たった一つの写真の中にある、傷ついた少女のうつろな目以上のことを、私たちは想像できるか?
多くの傷ついた体の映像に、一つ一つのインパクトは、かすんでしまうかもしれない。
さらに、その向こうにあるはずの、心の痛みは、数字でまとめられてしまったら、どう感じ、考えればいいのだろう。

麻痺したようにながれる、メディアの言葉。

私たちは、冷静なマスの目線を持ちつつも、一人ひとりから受け取るミクロの姿から、体験を想像する営みを忘れずにいたい。

2010年1月8日金曜日

分科会『非行・衝動性』へのお誘い

心理教育・家族教室ネットワークが、13回目の全国研究集会を迎える。
この会の創始は、家族心理教育やEE研究を通じた家族支援にかかわる、さまざまな立場の『専門家、初心者、当事者』が、情報交換や普及啓蒙を目的に、ゆるやかなネットワークを目指して集った時代にある。
いわば、mutual support groupの拡大版、といったニュアンスの会でもある。

毎年、参加者はうなぎ上りである。
今年の久留米大会も、盛りだくさんの内容だ。

遊佐安一郎氏、有賀道生氏、大江美佐理氏という講師のもとに、私もオーガナイザーとして参加する。

お誘いの気持ちを込めて、案内文を転載する。

心理教育の広がりを、「縦横」に見渡してみる。
ある疾患や障害に絞った展開を「横」とするなら、すでにエビデンスが蓄積されている統合失調症はじめ、気分障害や摂食障害への支援がそこにある。
今回の分科会では、いわば「縦」の視点で、心理教育の実践と有効性を共有したいと思う。
「衝動性」をキーワードとして、少年院における非行少年に対する心理教育的かかわりの実際を有賀道生氏(国立のぞみの園)に、大学病院における衝動行為に対する思春期青年期ケースへの意欲的試みを大江美佐里氏(久留米大学)に、それぞれご紹介いただく。
お二人の発表を受けて、遊佐安一郎氏(心理技術研究所、元長谷川病院)には、衝動性に対する弁証法的行動療法(dialectical behavioral therapy)のポテンシャルと、心理教育に応用するためのヒントを導いていただく。
参加者の力を得て、ぜひ、何かを感じるセッションにしたい。

2010年1月6日水曜日

思春期の非行をめぐる、有賀道生 氏のモノローグより

「社会的問題となって現れる非行が、どんな意味を持ち、我々に何を伝えようとしているのか、周囲は何ができるか、何をすべきか」という重い問いを、冒頭から私たちに投げかける言説。

下に紹介した「現代のエスプリ(509号)」から、ぜひ届けたい。

氏は、背景にある複雑なトラウマと、発達上の傷つき、自己救済の手段とも言える薬物使用への流れを、臨床体験とエビデンスをもとに描き出す。
その言説から、心に残ったいくつかを、紹介する。

「虐待を受けた彼らの問題行動は、生きていくためのわずかな望みをかけた心の叫びの様な気がする。非行少年に親のことをどう思っているか尋ねると、多くが『好きです』と答える。どんなにひどい仕打ちを受けたとしても、『好き』という言葉が届かないことを知っていても」

「薬物依存におちいった彼らが願うのは、どう薬物を止めるかというよりも、どうやって生きていけばいいか、生きる価値とは何か、という問い」

「彼らは、ばらばらになったパズルのピースの海いるよう。それを元通りにしようとするが、どうにもならずあきらめ、つながった何かを見つけると、また誰かに壊される。ある瞬間、壊れていない部分が見つかると、わずかな希望が芽生える。この一部をともに見つけ、わずかの希望を持ち続けるべく、支えること」

支援の力を、こう締めくくる。

彼は、志のある、我がフェローである。

そのことに、深い喜びと、誇りを、感じる。

2010年1月4日月曜日

曖昧問題に向き合う-中田力 氏の「フィロソフィア・メディカ」に学ぶ

世界は、実にあいまいなものである。
最新物理学や、ポストモダン社会学が、それを示し諭すように。

尊敬してやまない中田力 先生が、日本医事新報に寄稿している「フィロソフィア・メディカ‐複雑系科学入門」を、毎回心待ちにしている。
若き修業時代、邂逅をいただいたときの印象は、衝撃的であった。
これが、天才というものなのか。
自分の思考が、小さな虫の歩み、に思えた。
一方で、魂をこめて、臨床への熱意と人への優しさも、語られた。
先生の研ぎ澄まされた語り口調や、厳しくも温かい表情を思い起こしつつ、拝読する。

「現代社会は、すべての干渉系が非線形行動を起こすことを前提として、容認できる近似の中で成立している。複雑系の最前線にいる我々は、“曖昧問題”を認めることで、なんとか正しい方向に歩みを進める」

「絶対基準や正解のない中で、古来より人が真摯に物事を考える態度を、哲学と呼ぶ。人は哲学を持ちつつも、それを神格化せず、揺らぎを認め、個々の人間に主権を保持してきた」

「しかし、答えのない問いを求めるなかで、非線形運動を可能にした『小脳』と、哲学する脳である『前頭前野』を持つヒトが、いつからか暴走し始めた」

「物理学と哲学のかい離により、おのおのの正当性と存在価値が空論化している」

これは医療と医学のかい離にも影響していると、示唆される。

「個々の人間が、医師になるという決断過程の中で真摯な思考を重ね、臨床現場で日々悩むことにより、哲学を成熟させることができるという伝統が、今、失われている」、と言う。

「自然界にある形態は、『法則』と『環境』により、自己形成される」

それは、まるで雪の結晶のように。

「同様に、DNA遺伝情報をすべて読んでも、人は理解できない。そこには、規則の記載しかなく、自己組織化された結果は、作ってみないとわからない」

今の医療崩壊や、マネー資本主義の破綻、グローバリズムの限界、ひいては地球環境問題には、共通する二律背反、二項対立がはらんでいるように、思う。

最先端の人類は、これらの矛盾に直面することによって、実は哲学と科学の新たな創生へ、向かっているのかもしれない。

2010年1月1日金曜日

Happy New Year 2010

静かな、新年である。

7年前、真夏のシドニーで、正月を迎えた。

今はyou tubeで、花火の様子がリアルに体験できる。

世界の無意識は、確実に近づきつつあるようだ。

今年も、拙いながら、所作を問い続けていきたい。

Please visit this web to find a beautiful photo "Sydney NYE fireworks" by L Plater.