2010年1月25日月曜日

「自傷行為の理解と援助」の講演後に、めぐる思い

自傷そのもののインパクト、ひとつのリストカットから受ける感覚や衝撃、
それは、やはり大きい。

そんな時、私たちに、否認、畏恐、忌避、怒り、そして、無視が、うずまく。
さまざまなエゴや強がりが、周囲の我々に、訪れる。
そんな時、健常や常識人といわれる人は、道徳論や理想論を語り、説くことで、決着をつけるかもしれない。
そうした傷が意味すること、伝えること、そして私たち自身の心におきることは、なにか。
深く対峙することでしか、支援の道筋はうまれない。

これは、たった一つの出来事、たった一人との出会いでさえ、起きてしまうこと。
深く見つめねば、過ぎてしまうことかもしれない。
それが、もし大多数で生じたとき、マスとして統計であらわされるとき、何が私たちに伝わるだろう。
数字として、ハイチの被害者が10万人以上とわかった今、たった一つの写真の中にある、傷ついた少女のうつろな目以上のことを、私たちは想像できるか?
多くの傷ついた体の映像に、一つ一つのインパクトは、かすんでしまうかもしれない。
さらに、その向こうにあるはずの、心の痛みは、数字でまとめられてしまったら、どう感じ、考えればいいのだろう。

麻痺したようにながれる、メディアの言葉。

私たちは、冷静なマスの目線を持ちつつも、一人ひとりから受け取るミクロの姿から、体験を想像する営みを忘れずにいたい。

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