2011年1月26日水曜日

過去コラムより再び-問題は、はたして問題なのだろうか?(2005)

「問題」ははたして問題なのだろうか?
‐G8と長崎の児童殺害事件から、「解決志向」を再認する

 アメリカ南部・ジョージア州は、すでに夏の気候だろう。リゾートの島シーアイランドで、先進国首脳会議G8が開かれた。アメリカは独仏露と歩みより、というよりも妥協をして、イラクへの多国籍軍としての派遣と、統治に向けた新たな枠組みを模索している。
 そもそもアメリカの一国主義、覇権主義が今回の事態を招いた一つの要因であることは、衆目の一致するところであろう。アメリカ型民主主義、自由主義が、健康で正義であり、イラクを始めとするイスラム社会などは、病理や異常を抱えている、という問題志向的な視点が根本にあるように思えてならない。さらには古いヨーロッパやアジアの伝統しきたり、リベラルな主張など、合い入れないものは、わからない、わからないものは、悪い、といった、短絡的志向にアメリカ国民が陥っている(もしくは、陥っていた)、フランスワインをボイコットした行為などにも、良く見て取れる。
 これはアメリカ人だけのことではない。ふりかえれば、我々の日常の考え方や視点も、問題となる点を見つけその原因を探り、それを何とか除去しようとするところが多々ある。そうした基本的な点は、国は違えども結構共通している。そうした考えの向こうには、必ず正しいあり方、健康な姿、といった、欠点なき像を見据えていることが多い。なんだか、キリスト教の天国、仏教のあの世、みたいなものを想像できるかもしれない。
 さて、現実にはたして欠点や問題や病理のない人間、組織、社会、世界はあるのだろうか。アメリカ社会は、たしかに夢と希望にあふれ、物と豊かさと、優越感に満ちている。しかし、まさしく今のアメリカに生きるマイケルムーアが風刺しているように、銃や犯罪、麻薬、人種差別、貧富の格差、などなど、「問題」や「病理」も併存している。
 医学も、病気の原因、病理を見つけ、それを除去することで発展してきたし、実際そうした教育を行っている。手術や薬で病気の元をたつ、というわけだ。ただし、病気は決して悪ばかりでないのは、風邪をひいたときの熱を考えれば明らかだ。外からの異物を排除する体の免疫力が、結果として熱を生み出している。不快ではあるが、これは大切なしるしでもある。事実、今の風邪の治療は、あまり解熱剤を用いない。
 問題志向により、医学も社会も国も覇権主義に陥りやすい。こちら側が「正しい」と判断することを、あちらが側から見ても同じに見えると思って、おしつけてしまう。熱は平熱の人間を基準にすると問題だが、力強い免疫サインの基準とすると大変良い反応性、ということになる。一方、解決志向では相手のやりかたや工夫を尊重する。そもそもこちらには問題に見えても、あちらではそれが解決になっている、という視点で臨む。構成主義(コンストラクティビズム)*といわれる立場では、相手をまず信頼するし、相手からもきっと信頼される。
 最近児童による凄惨な事件が起きた。あくまで報道された情報を信じてそれに頼るなら、加害児童は「いいこ」「普通の子」「誰にも良く挨拶する子」「明るい活発な子」で、「問題のない子」であったという。児童はそもそも親や周囲の保護が必要で、だから当然刑事責任も問われない。それは、子供は未熟で、まだ発達の途上にあり、大人でないからである。いいかえると子供は「問題」をおこすから子供であり、「問題」があってこそ子供なのである。生まれたとたん訳知りの顔で大人顔負けの人生訓を持っていたなら、これこそ奇怪で狂態であろう。小学生が誰にでも明るく気を使って、迷惑をかけない、それは果たして問題がないことなのだろうか。この時期は問題があってこその存在で、それは実は「問題」ではなく、もしかしたら子供らしさそのものであり、発達や成長の糧といえないだろうか。外に起こせない問題を、内に起こしていたら?これはまさしく悲劇を生む。
 清濁併せ持つという言葉があるが、我々生態は細菌やウイルスとまさしく同居しており、全くの無菌環境では抵抗力がなくなってしまう。純血のペットは病気にかかりやすく、雑種のほうが力強いことは良く知られている。そもそも日本國は、奈良や平安時代に様々な異文化と交流を重ね、日本独自の文化の一時代が作られた。一方、鎖国時代には社会は安定したが、日本が進歩し花開いたとはいいがたい部分がある。かのアメリカさえも、様々な人種が力を合わせることで、今のパワーを維持している。
 細胞も、体も、家族も、地域も、国も、社会も、そして世界も、さまざまな価値観、人種、文化、考え、そして清濁併せ持つことで、いわゆる健全に機能するのだろう。そう考えると、やはり問題は解決のみなもと、大事なヒントだとつくづく思うのである。
 だからこそ、子供達が問題をおそれず大人に顕してほしいし、それをびくびくせず、過剰に目くじら立てず、向き合える大人でありたい。でも正しいことは正しい、と力強く言い合える社会に戻ってほしいと、つかれた中年は祈るのである。
(2005)

社会構築主義(社会的構築主義、社会構成主義、social constructionism or social constructivism):現実、つまり現実の社会現象や、社会に存在する事実や実態、意味とは、すべて人々の頭の中(感情や意識の中で)作り上げられたものであり、それを離れては存在しないと考える、社会学の一つの立場である。社会的構築物とは、それを受け容れている人々にとっては自然で明白なものに思えるが、実際には特定の文化や社会で人工的に造られたにすぎない観念となる。

0 件のコメント:

コメントを投稿