2009年12月28日月曜日

2009年、忘れられない言葉、そして忘れてはいけない言葉


佐々木正美先生のインタビューから(有壬だより、44号)

「留学先のバンクーバーから帰る時、クライン先生から言われた言葉、『あなたはいろんなことを学んだ。だけど、自分であれこれやろうとしちゃいけないよ。空港に降りたら、患者さんや家族が望んでいることを、一生懸命考えなさい』、お別れのとき、穏やかにおっしゃった。それを、ずっと忘れられないでいます。子供と親の希望、時にそれが異なる時、それぞれが失望にならないように考えること。これは、すべての医療につながると思います」

「今の日本人は、どんどん自己愛的になっている。豊かになり、助け合う力を失ってきた。自由な社会だから、共感的な人間関係なしでも、生きていける。しかし人間は、人間関係の中で、自分の存在の意味を知る。良い人間関係は、相手から与えられるものと、相手に与えるものとがある。片方だけが幸せであることは、あり得ないのです」



義母の法事にて、真宗坊主のことばから

「仏(ほとけ)とは、死んだ人、目を閉じた人。仏陀とは、目覚めた人、悟りに達した人、目を開いた人。

では、仏教は何のためにあるのか?
たとえば今日、亡くなった方をしのび悲しむだけではなく、仏の縁でそこに集い、現世の自分を考え、生活を見つめる機会をいただいた。ましてや、なくなった方をかわいそうなどと思うことはない。なぜなら、仏はすべて浄土におられ、生きている我々こそが、艱難辛苦や未熟さの中で、もがいているのだから」

「じゃけんなり あさましなり 鬼なり
これがさいちがこころなり
あさまし あさまし あさましや」(浅原才市)

「今は亡き法然上人が、『浄土の教えを仰ぐ人は、我が身の愚かさに気付いて往生するのである』、と仰せになっていたことを、確かにお聞きしました」(親鸞聖人御消息)



フィギュアスケート日本選手権、中野選手の一言

フリーで最終組・最初の演技、昨日のSPに続き素晴らしい高得点に、インタビュアーが、
「つらい時期を乗り越えて、オリンピックに近づきましたね」、と問う。

中野選手、
「自分なりに納得のいく滑りでした」と充実した表情で述べ、 そして、

「この後に滑る5人の選手が、みんな頑張ってくれるよう、願っています」

素晴らしいアスリートの、「言葉」。

しかし、結果は0.17ポイント差で、鈴木選手がオリンピックに出場する。
彼女は、摂食障害と向き合った経験を、カミングアウトしている。
鈴木選手もまた、素晴らしいアスリートである。




田坂広志氏のインタビューより(世界のエコイストたち)
http://moura.jp/ecologue/ecoist/index13_1.html

『我々が、自と他を分け、人間と自然を分け、「自然にもっと優しく」と言っているうちは、まだ二項対立的な発想、操作主義的な発想が忍び込んでいるのです。もし人類が、本当に地球環境問題を克服する時代が来るとしたら、我々の意識がまさに、自と他が一体になった「自然(じねん)」の状態に入ったときなのです。


いま、世界中で、「共生」という言葉が大切な言葉として語られていますが、実は、「共生」という言葉は、密やかに自と他の二項対立が前提になっている言葉なのですね。しかし、自と他を区別しない意識は、本来、「自然(じねん)」と呼ぶべき状態です。そして、こうした思想もまた、地球環境問題の時代に、日本という国が世界に対して為すべき知の貢献であると思うのです。

自も他もない。そこにただ世界があり、己も含めて一つの世界。それがなぜか不思議なことに、自らの生命的な力により、生成し、変化し、発展し、進化していくというのが、自然(じねん)の姿です。』



家族会での講演後に届いた、一通のお便りから

「自殺願望が強かった娘が、今は母としての役割と責任から、育児を楽しんでおります。そんな娘から久々に、『治るってどういうこと?』という言葉が。まだ苦しいことがあると、知りました。回復するには時間がかかりますが、子供も親も成長する中で、何かが変わっていくように思います。先生が静かに語られる中に、多くの励ましがありました」

私こそ、多くの励ましを、いただいた。


それぞれに感謝をこめて、ご紹介した。

2009年12月20日日曜日

COP15

コペンハーゲンで「協定」への「留意」が合意された。
これから世界がサバイバルしていけるかどうか、見通しは厳しいものとなった。
「逆転満塁ホームラン(小沢環境相)」、というべきネゴ・プロセスや、それに向けた尽力には、最大限の賛辞を惜しむまい。
一方で、世界のエゴ、を現実のものとして痛感し、直面する事態でもある。
田坂氏の言説に拠れば、
「現実は、『事実』と『感情』で構成される」
しばしば出会う「現実の壁」は、双方のもつ感情が障壁となる、という「現実」。
世界は今一度、この「事実」を深く見つめるべきであろうと、COP15に想う。

2009年12月16日水曜日

コンサルテーション・ステーションへの進化にむけて -1

個別の学生や職員への、心理的援助や精神的サポートは、それ自体が重要な活動ではある。
ただし、かかわりがある少数の専門家や職員だけに限られるならば、変化の肯定的波及は、狭小化されてしまう。
そもそも多大な対象を相手として、広大な敷地の雑草を摘むような無力感も抱く。
そこで必要な視点は、コンサルテーション。
組織の個々人が、カウンセラーとして、相談者として、共感者としての働きと力をもつなら、その肯定的影響は計り知れない。
コンサルテーションの情報提供、個別支援、リエゾンサービスを通して、個々のコンサルタントをスキルアップし、ひいては、組織全体のメンタルヘルスの向上を目指す。

まさに、複雑適応系の営み。

そこで提示したい、3つのポイント

1.問題事例への見方が変わること-帰属やメカニズムの解釈が変容

2.説得力のある根拠の提示-とらえ方を変えるに足るエビデンスや情報

3.想像力と共感力-かかわりに前提とされる「わざ」であり『哲学』

複雑系のゆらぎに拠れば、個々への有効なコンサルテーションは、組織全体へ波及するだろう。
事例の成長とともに、コンサルタントもエンパーワーされ、さらには大学全体が、その効率性や、創造性、生産性を高めるであろう。

次の機会に、それぞれのファクターについて、語ろう。

2009年12月7日月曜日

ギャッべを買う


イランの砂漠に暮らす遊牧民族カシュガイ族の女性達が、羊毛で織る草木染の絨毯を、ギャッベと呼ぶ。自然で染めた手紡ぎのウールで、暮らしの中にある風景を、アドリブで織り込んでいく。素朴な自然の色、デザインがなにより良い雰囲気。「ギャッベ」とは、「粗い」という意味があり、ペルシャ絨毯と比べると粗く、毛足も長く厚い。遊牧民のテント生活の暑さや寒さ、固い土の床から、人々を守ってきた。羊毛100%なので、夏には暑そうだが、羊毛自体が呼吸しており、キューティクルが開いたり閉じたりして、毛の中の水分を一定に保とうとする。夏にはひんやりとした肌触り、冬には保温のためふんわりと暖か。特にアマレと呼ばれるタイプは、織りの密度が高く、毛足が短めにカットしてある。薄く、しなやかで軽いため扱い易く、織りの密度が高いので繊細な模様を表現する。光沢があるので高級感があり、肌触りも滑らか。当然制作には通常のギャッベよりも時間も手間もかかり、毛糸や染料の量も増えるので高価。お店の人いわく、一生モノ、1日でも長く触れていたいのなら、今すぐ手に入れたい。使えば使いこむほど、色合いも、味も出るという。その割に、使い勝手がよい。ついつい1枚買ってしまった。(写真はHPから拾った見本)

2009年12月2日水曜日

切池班での、深い洞察に共感

諸先輩の心に響く討議、1つ1つが深いものだった。
切池班でなければ、このような体験はできなかったろう。

たとえば、渡邊先生の
「摂食障害を見つめることは、次世代の精神保健の重大テーマ。子育てに大きな障壁を抱える母たち、じつは思春期にダイエットや予備軍が存在する。虐待や、養育放棄、子供のうつ、産じょく期うつ、そもそも未成年のダイエットは法律で禁ずべきである!」
大変に、重い指摘。

そのほか、切池先生の人間味あふれた回復論など、
さまざまな著名な先生方が、忌憚なき言葉を語られた。

こうした場を共有することが、摂食障害の臨床・研究に携わっているものにとって、大きな魅力であり、報酬になるのではないか。
若手中堅の精神科・心身科医師、身体科救急科の先生、医療機関、開業医、それぞれにとって、摂食障害臨床の肯定的体験や、うまくいった連携体験が、今こそ必要なのではないか。
「たちさり」や「アレルギー」さらに「ボールの回しあい」を変える、手立てになるのではないか。
性善説かもしれませんが、医療関係者の多くは、なんとかしてあげたいという気持ちを多く持つ方々、身体科の先生方も、難しいケースに果敢に取り組む精神をお持ちだろう。
金や名誉以上に、ケースのナラティブに気づくことで、医師・研究者として成長できることは、摂食障害のみならず、難しい障害や病にかかわるが故の醍醐味。
これを伝え共有することが、さまざまなシステム作り、行政への陳情などと同レベルで、共感されていってほしい、そう感じた。

2009年11月30日月曜日

Ken Doneのポップな絵


2000年のシドニー・オリンピックで、開会式、閉会式のプログラムのデザインを手がけた。
部屋にパノラマの公式複製を飾っているが、一瞬ハーバーに居るような風が吹いてくる。

2009年11月27日金曜日

2003年末の日記から、ふたたび

私が豪留学から帰国した2003年は、イラク戦争が勃発し、人々がテロの危険におびえていた。
世界が分断に向かう、まっただなかにあった。
その時の日記に、こう記してある。

しばらく、日本を離れている。外から見ると、祖国はやたらと世相が悪い。海外チャンネルから聞こえてくるニュースは、天変地異と猟奇的犯罪ばかりのような感覚に陥った。
日本ばかりでなく周りを見渡すと、どうやら世界は分断に向かっているようである。中途半端な動きでは収まらない、システム全体の変化は必然のようだ。
而して日々の営みは、日常の名のごとく、同じような関わり合いの繰り返しで成立している。結局、人間は人と交わることでしか存在し得ない。内的な自我を概念化したこと自体、他者なしでは自己を規定できないことを自明にしている。
生きている現実は、人々が紡ぎだす音楽のようだ。ベルリンフィルの指揮者ラトルは、音楽は、「決して一人ぼっちではない」というコミュニケーションである、と述べている。コミュニケーションは「差異」を伝え合う様式であると、心理学者ベイトソンは定義する。
東と西、白と黒、男と女、それらの差異こそが伝え合うものであり、永遠に奏でられ続けられる音楽なのだろう。そこには、当然いくばくかの物語が生まれる。
世界が、そうした差異の意味を子供たちに伝え、それらの意義を奏でられたら、とひそかに願っている。

2009年11月25日水曜日

立花隆 氏のNHK番組「思索ドキュメント がん 生と死の謎に挑む」

なかなかに、深く考えさせられる番組であった。ガン細胞は、生命進化そのものである、というアンチテーゼ。

ワインバーグ教授(MIT)いわく「生きていること自体がガンを生む」。生体は毎日計り知れない何億という細胞の再生を繰り返し、体と意識を一貫して保っている。その際、細胞のコピーミスがちょっとでも起きると、ガン細胞になる。

「ミスが起きないこと自体が、奇跡」

RAS(がん遺伝子)が異常を起こすと、再生情報が暴走し、増殖が止められない。がん遺伝子は厖大な数があり、その全体像をひとりの研究者が捉えることさえ不可能という。

「複雑系の様相、まるで宇宙そのもの。」

「分子標的薬」は異常信号を抑えることを目的に開発されたが、がん細胞は機能を学び、違うルートで再生を続ける。分子標的薬は、効き目を失う。ガンは防御法を次々と考えて、薬の裏をかく。

「創発と組織化」

進化の過程で重要な働きを持つ遺伝子「HIF-1」、ガン細胞にたくさん存在する。これは、酸素が行き届かない、低酸素領域で働く。HIF-1は低酸素でも生き残れる能力、移動する能力を身につける。転移と浸潤の力。「ガンは低酸素に順応、生き残ったガン細胞は、放射線や抗がん剤にも抵抗する強力な細胞になる。(セメンサ教授、ジョンホプキンス大)」

「実は、生命が原始のころから有している、進化の源とも言えるのが、このHIF-1」

ジョンソン教授の実験では、HIF-1が無い胎生ラットは、細胞がバラバラになり死んでしまう。胎生初期、生体は低酸素状態で、細胞が分化するにはHIF-1が必要。酸素を必要とする生物が、進化の過程で獲得した遺伝子なのであった。HIF-1は海と陸を行き来した動物には極めて重要で、進化の中で、ずっと保存してきた。

「生命の歴史が作ったものがHIF-1、それがガン細胞も作っている」

がんは進化で獲得した遺伝子を多数有している。3万年前の恐竜にもガン細胞が発見され、あらゆる生物のガンには同じ遺伝子が使われているという。

免疫とがんについて、ポラード教授(アルバートアインシュタシイン医科大)がマクロファージの働きを説明する。ガンの組織の中には、マクロファージが大量に集まってくる。しかし、マクロファージはそれを食するのではなく、ガン細胞の移動を手助けしている。一見、裏切りを行なうマクロファージ。しかしマクロファージは、本来の機能を果たしているに過ぎない。通常、マクロファージは傷口を修復するために集まり、移動や成長を促す物質を放出する。同じことがガン組織でも行なわれ、マクロファージに導かれるようにガン細胞が移動する。

「生命保持の力そのものが、ガンをはぐくむという、矛盾」

クラーク博士(スタンフォード大学)によれば、ガン幹細胞を移植したラットのみで、がん細胞が増殖した。抗がん剤は「ガン幹細胞」には効かない。ガン幹細胞は、通常の「幹細胞」に極めてよく似ている。ガン幹細胞を攻撃すると、幹細胞を破壊してしまうかも。

IPS細胞の研究者である、山中教授(京都大学)の話も興味深い。IPS細胞の最大の問題は、がん化の懸念であり、IPS幹細胞とがん幹細胞の違いは紙一重でもある。命を再生するIPS細胞と、命をうばうがん細胞は、極めて接近している。

「人は、イモリやヒトデの様に体を再生することをあきらめることで、生殖年代までガン化をなるべく防ぐ手立てを選択したのではないか」

ヒトが選択した進化の道、長寿によって必然として明らかになる、ガン。

立花氏いわく、「人類の半分はガンになる。1/3がガンで死ぬ。ガンはDNAの病気で、生命維持・存続の仕組みそのものに、ガンが由来する。では、生命とは何か?」

そして、こう言う。「人間は、死ぬ力を持っている。ジタバタしないで生きることが、ガンを克服するということではないだろうか。」

http://www.nhk.or.jp/special/onair/091123.html

2009年11月21日土曜日

マインドフル、ふたたび‐‐‐Eating Mindfully(星和書店)の訳者あとがきから

生きとし生けるものにとり、「食する」ことは生存をかけた根源的な行動といえます。原始的な生命体から人間に至るまで、食物を求めることは本能で規定されています。地球上で絶え間ない「食うか、食われるか」の営みを見れば、その厳しさは言わずもがなでしょう。自らの何倍も大きな動物を飲み込む爬虫類、食物を確保し繁殖に適した地をもとめ地球を一周近く移動する鳥類、昆虫を食する植物など、元来そこに存在するのは、生きるか死ぬかをかけた壮絶な姿です。食と食行動が、生物にとって根本的テーマといわれる所以はそこにあるといえます。
 さて人間も哺乳類の一種ですが、他と大きく違うのは、言語と思考能力を持ち、自我という概念で内的な世界を構築できるところにあります。加えて、遊び楽しむ能力を持つことも、人間の人間たる大きな要素であるといえるでしょう。フランスの文化史家ヨハン・ホイジンハは、人間を「ホモルーディエンス(遊ぶ存在)」と呼んでいます。この能力は、文化や文明を形成する基盤の一つになっているのです。
 こうした面から人間と食との関係を見ると、人間にとって「食する」ことは短に生命維持の本能的行動ではなく、遊び楽しむ側面があることは明白です。人間は食を文化とし、食をレジャーとしています。昨今のグルメブームを見れば、お分かりいただけることでしょう。さらに人は食をコミュニケーションの手段とし、社会的な儀礼として位置付けています。冠婚葬祭、晩餐会、歓送迎会など、食を囲んでさまざまな会話が弾み、長い歴史の中で培われ伝統として育まれている食もあります。また人は、食を健康管理のために利用し、さらには「食しないこと」で何かを伝えるすべさえ生み出しました。さまざま健康食ブーム(フードファディズム)や、ダイエット、さらにはハンガーストライキなど。これらはいずれも、大きな大脳連合野と前頭葉を持つ人間だからこそ可能になった、いわば「食にかかわる高次機能」といえましょう。
本書で指摘されているマインドレスな食事は、こうした「高次機能」を有する人間であるがゆえに生じうる顕著な例と言えます。過激なダイエットや気晴らし喰いといったマインドレスな食行動の裏には、人間特有の豊かで複雑な食との関係をすべて無視したり、過剰に支配しようとする傲慢さに満ちていたり、大切な人とのかかわりをも失ってしまう危険をはらんでいます。当然、本来の目的である栄養補給や健康な身体を維持するという役割をも蝕み、まるで心と体が、「人のようで人でないもの」に変わってしまう可能性があるのです。
本書が提唱するマインドフルな食事、マインドフルな食との関係は、もういちど人間らしさを取り戻し、人間らしい心、人間らしい体をよみがえらせる方法とも言えるのではないでしょうか。脳科学的にいえば、大脳辺縁系(本能)で食べるのではなく、また大脳皮質で過剰にコントロールして(考えすぎて)食べることでもありません。脳も体も十分稼動しつつ、かつそれらの発するメッセージを捉え、それに従い、今ここでの瞬間を実感しながら食べるということを、著者は推奨しています。これは、激流のごとき日常に生きるわれわれにとって、まさしく見失っているあり方かもしれません。本書は、単に健康な食をめざす自習書ではなく、心と体、思想と感情の4側面から、人間らしさを取り戻す指南書とも言えるのです。是非多くの方に読んでいただき、日々のストレスフルな生活の中で自分を取り戻すために、「マインドフルな食」を生かしていただきたいと、訳者の一人として切に願っています。

2009年11月18日水曜日

はなれてみて、ふたたび‐‐平成19年度同窓会誌への寄稿より

大学病院で精神科を続けるわけ-その困難とよろこび 

母校の医局を離れて、すでに8年以上が経過いたしました。年に一度同窓会誌を手に取るときは、懐かしく新潟時代が蘇ります。同時に、先生方の寄稿を拝読し自らの不勉強を戒めたりいたします。ちなみに本誌に拙文を寄せるのは、入局時の自己紹介以来です。医局でお世話になっていた当時は、自分のことばかりに集中していた未熟者でしたから、はたしてテーマに沿った内容を語る資格が自分にあるのか?甚だ汗顔ものです。しかし、母校の教室が若者たちの声で沸きかえるべく、何かのお役に立つことを願って、この依頼をお引き受けしました。ただし、私のようなあちこち関心の移ろい易い人間でも、何とか大学病院精神科でやっていけるという一点において、少々を語ることしかできませんが。

 私は精神科医としてのキャリアを、大学病院でほとんどすごしています。しかし、働きやすいと思ったことは、残念ながらあまりありません。それでも、様々な専門家や触発される知見との出会い、医学生との交流、困難なケースから受ける刺激、研究や新規な事象への親和性、ある種の使命感などが、私を大学に留めておくのかもしれません。(実は最近、人前でしゃべることもそれほど嫌いではないことに気づきました。)

 大学が法人化し、会議で出る話題は「経営のスリム化」や「接客意識の向上」、「タイムスケジュールの入力」、「教員評価」などばかり。かつてサロンのごとき、若い人たちとともに「文化」や「病」や「脳」を語ったような、場所や時間がはなはだ減少しています。教育にかかる比重が増えることは好ましいのですが、予備校講師さながらの授業が高く学生に評価され、精神科のような「ようわからん」分野のわからなさを語る授業は、とても分が悪いわけです。昨今、学生も「学問」ではなく「勉強」するために医学を学んでおり、そもそも受け狙いの準備ができないくらい業務が増えています(研修医指導は煩雑なれども、それはそれでいろいろな先生に出会えるメリットはありますが)。臨床業務上は、対応が難しい事例や「患者さん絶対数」の集中が待ったなしで、病院の疲弊と瓦解はすでに周知の事態です。収益に寄与しにくく、稼働率や在院日数軽減でも厳しい立場にある精神科では、人手も予算も削られる運命を感じつつ肩身の狭い日々をすごしています。

こんなことばかりでは、魅力にはなりません!しかし、大学には換え難い位置づけがあるはずです。回顧主義ではなく、かつてのような様々な考えとポリシーを持った先輩同僚若者たちとの相互交流の場。尊敬を持ちつつも、コンペティティブに競い高め合う場。経済は潤わずとも、人生の拡がりの初端と遭遇する場。その教室ならではの雰囲気や伝統、そして学派とも言うべきたたずまいに触れること。これはキャリア形成の中核で、文化にとっての風土とも言い換えられるでしょう。発達になぞれば、「家族」であり「コミュニティ」でもあります。そもそも大学では金はいただけないけれどアカデミズムを論議する余裕や文化があり、そこで触れる先達の姿とディスクールを通して、精神科医としてのアイデンティティや誇り、時にはアクティングアウトやエディプスを向けつつも、無形の影響を受ける場でありました。その教室で受けついだ伝統やスタイルが、礎のところで自分を支えているのです。一方でビジネスモデルに浮かれた輩が声高に叫ぶ中、研究がややもすると商主義化し,さらには作為体験化したら、大学に居る必然はありません。なぜなら、大学の魅力の一つは主体的な研究ができることにある、と思うからです。ちなみに研究はしなくてもいい「こと」ですが、研究経験が臨床や人生に与える影響は少なくありません。もちろん苦悩ばかりで、負のインパクトが大きい場合もありましょう。それはそれで、人生の一時期を彩る季節であり、少なくとも無駄の意味を知る貴重な経験になるはずです。

大学に居るおかげで獲た個人的に最大の幸運は、留学の機会に恵まれたことです。摂食障害の国際学会発表の際に座長をしていただいた縁で、シドニー大学のPierre Beumont教授に出会い、渡豪のお誘いをいただきました。Peter(英語名)はこの業界で知らぬ者はいない大御所でしたし、場所もオーストラリアですから、留学が決まったときの喜びは、それまでの人生で最も幸せを感じた一瞬でした。着いた早々ご夫妻にオペラハウス(祝!世界遺産登録)の観劇に誘っていただきましたが、晴れ渡った青い空、初夏の風、湾の美景、ハーバーブリッジの勇姿、今もあの感激と喜びが鮮やかに残っています。写真1は、私が滞在後半に過ごした部屋から眺めたラベンダーベイの景色です。シドニーの生活は忘れがたく、とても幸せで楽しかったので、今でもつらいときはよくプチ解離などして懐かしみます。もちろん日本の精神医療や大学システムとの違い、言葉の壁など、慣れない体験や挫折も数々ありました。おまけに、後半にPeterが急病で倒れ救命救急に運ばれ、私の帰国間近に永眠されたのです。葬儀に出席したとき、奥様や彼の仲間が私のことまで心配してくれました。いまさらですが、彼が紹介してくれた臨床理論、彼と語った文化論などが、強烈に蘇ってまいります。なお、「脳と精神の医学」(2003)にも、拙文留学記が掲載されておりますので、よろしければご覧いただけると幸いです。ちなみに、シドニーでは愛妻と愛娘まで授かり、私もバチェラーからすっかり家庭人に変容いたしました。

さて、今私の関心事は、児童精神医学にあります。この領域の重要性は今に始まったわけではありませんし、新潟では薄田先生や小泉先生をはじめとする先達の伝統を引き継いで、着実に活動されていると伺っております。群馬の地でも、遅まきながら小児精神科開設へニーズが高まる機運にあります。何事でも、新しく「こと」を立ち上げる苦労に代わる面白さはありません。診察室の確保から協働可能な人材のリクルート、事務折衝を含め、ようやっと「こどものこころの診察」が細々とスタートしています。これも遅きに失していますが、自分自身が育児の最中にあるせいでしょうか、子供の発達にかかわる魅力をリアルに共有しています。彼らが自分らしく生きていける大人や社会でありたい、という灯明を旨に、大学という場で私なりに踏ん張っています。ただし、いつまでここにいられるか、本誌が出る頃にはどこかに転出しているかも、等々はなはだ心もとないわけです。こうした状況ですので、これからも同窓の皆様にお世話いただく機会が多々あろうかと思います。その節は、ご指導どうぞよろしくお願いいたします。末筆ですが、同窓会員の先生方と新潟大学医学部精神医学教室の発展をお祈りいたします。(2008年春刊行)

2009年11月16日月曜日

石川遼 君のインタビューに学ぶ

先週のツアーで、4位と健闘した石川君
賞金王に関する質問に、こんなことを答えていた
「今回、うれしいショットは3つありました。これらは、大きな収穫でした。
一方で、最後のパットがカップにかすらなかったことに、今の課題が示されています。
今日はとても良い天候でしたが、途中激しい雨や風など、このコースはすごい経験をさせてくれた。
こんな中で、コースのコンディションを保ってくれた、関係者・スタッフに感謝します。」
素直で謙虚、しかし過剰に卑下したり、自信過剰になることもなく、良い面は肯定的に、課題は的確に把握している。
彼のスキルやパワーのすごさでだけではなく、メンタリティとパーソナリティーに、瞠目を禁じえない。

2009年11月12日木曜日

ダライラマ法王のシンポジウムに参加して‐知識・情報・啓蒙による専門家への過剰なニーズ集積から、一部の幻想的奇跡願望に耐えうるまなざしへの示唆

ダライラマ法王、ごくごく自然体で、当たり前のことを率直に、参加者と同じ目線で語りかけられた。
心のどこかで、ものすごい、凡人とは違う方に会えるのではと、カリスマ的な体験を期待していた、自分に気付いた。
頭上のライトに赤いバインダーをかぶり、カメラを気にせずお薬をお飲みになり、トラブルを笑って受け流す。
宗教指導者も、われわれと同じ、生身の人間であることが、やっとわかった。
そこで語られた言葉に、目新しさや気張ったところはないが、一緒に同じ地球に住んでいる、そして何とかしていける、というメッセージに聞こえた。
世界の期待や注目を受ける中で、ありのままの自分で居られること、そこに素晴らしさがあるのかもしれない。

2009年11月9日月曜日

Ken Duncan


Ken Duncanの写真は、とても素晴らしい。
オーストラリアの自然という素材が、見る者を惹きつけるという事実は、リアルなそれらを体験することで、さらに圧倒的なインパクトを余韻させる。
(HPのフリー写真より引用)


2009年10月28日水曜日

“連携”という名の”諍心”-Treatment and Education of Autistic and related Communication- Handicapped Childrenに学ぶこと

先日、某学会の組織委員会に参加した
以前から思っていた違和感、それをまた、痛感した

“連携”という言葉の上で起きること

困難なケース、医療だけではどうしようもできない
ただし、「何とか障害」と名がつくと、『医療』で何とかするべし、という理解がうまれる

ここで、「 」と『 』の中を、学習の問題と教育、しつけと家庭、非行と司法、などと言い換えてみよう

発達障害の事例、専門のセンターで複雑な病理も扱う、治療の手立て、どこにもないじゃないか!医療は何をやっているんだ。

病院では、戻る家族のない、過ごす場のない、思春期の事例を抱える、医療ができることはわずかという意見、相談所は何もしてくれないのか。

教育現場での理解をさけぶ、ただし学校では、診断されたにもかかわらず、対応しにくい問題は持続する、じゃあ、だれがどうしたらいいのか?

家族が崩壊している、家族に戻ると、悪くなる、施設に入れるわけでもない、どこで過ごすのか?家族の歴史、状況、非機能性を、施設ではいつまで引き受けるのか?

そもそも就学後も続く人生、年齢がくると、かかわる機関も手を引く

言葉でいえば簡単、医療・福祉・教育、司法、心理、エトセトラ
しかし、問題の多面性と多様性、そしてライフサイクルの視点をもってすると、
縦横にまたがる存在としての「障害」が見えてくる

それぞれの専門家が限界を認識している
それぞれの専門家は、その専門性の中でできることをする

できないことが多い、ほかの領域でやってほしい
範疇の外へ回す、依頼する
ここまでしかやってくれない、こういう場合はだれがどこでどうするのか

そもそも発達障害、治療し治癒するべきが、正論なのか?
健常者がよってたかって名付けること、診断することが、一義的か?

こんな気持ちが、違和感の中に、見えてきた

TEACCHの現場でおきていること
それはショプラー教授のいった、「すべてのスタッフがgeneralistになること」
理想ではあるが、その場におきる連携は、specialistのボールの投げ合いとは違っていた。
それぞれが抱えあい、助け合い、理解し合うことだった
それは情報も、工夫も、限界も
そこでのスタッフ、家族、当事者の穏やかさは、魔法のような技法から生まれたのでないことを、知った
語られる問題や工夫は同じでも、そのスタンスや視線が違った
医療は教育での努力を知り、家族は専門家の知恵を知り、地域は関係者の姿から、工夫の向かう先を、見据える。
それは、多文化への理解と共生
間違っても、上から目線のバリアフリーではない

オフェンスがデフェンスもする
その動きを理解できる
言葉が通じる
戦略的なボール回しとも言える
戦略とは、「いさかいを略すこと」

いつも語られる連携、という名の、ボールの回しあい、抱えることに肯定感の持てないシステム、そこへの違和感であることに気付いた
そこには、諍いの心、があった

再び、田坂氏の言葉を、引用する


マジックを求める心

かつて、英国のサッチャー元首相が来日したとき、
その記念講演会に招かれました。

明確な思想と強い信念を持ち、
国内の多くの抵抗に遭いながらも
英国における困難な改革を成し遂げたサッチャー氏は、
その静かな話し振りの奥に、
確かな気骨を感じさせる人物でした。

しかし、その講演の後、
出席者からの質問を受けたとき、
我が国の著名な識者の一人が、
ある質問をしました。

サッチャーさん。
日本は、いま、長く経済的低迷の時期にありますが、
もしあなたが、日本の首相であったなら、
どのようにして、この国の建て直しをされますか。

その質問に対して、
サッチャー氏は、質問者の心を感じ取ったのでしょうか、
それまでの穏やかな表情を変え、
厳しい口調で、はっきりと答えました。


もし私が日本の首相ならば、
打つべき手は、あります。
しかし、そのことを申し上げるよりも、
大切なことを申し上げましょう。

政治に、マジックは無い。

そのことを理解されるべきでしょう。


難しい問題に直面したとき、
いつも、このサッチャー氏の言葉を思い出します。

なぜなら、我々が困難な問題と格闘するとき、
その戦いの相手は、問題そのものではないからです。


マジックを求める、安易な心。


それこそが、本当の戦いの相手だからです。



2004年10月4日
田坂広志

2009年10月26日月曜日

回復の光について

家族会で講演した後、さまざまな経験をうかがった。

その一つ。プライバシーに配慮しつつ、ご紹介したい。

子供さんが、かなり小さいときに摂食障害を発症、当時ほとんど専門機関もない中、あちこちに相談するも、芳しくない。
本読む、話を聞く、なかなかにむずかしい病と書いてある。
あきらめや、でもどうにかできないだろうか、先々の不安、さまざまなお気持ちがあった。
ある婦人科で、生理が来ないことを相談に行くと、「月経のない人生というのもありますから、お母様は何をもとめているのですか」という言葉が返ってきた。
そのときの、悲しみ、怒り、向けようのない落胆。
そんなとき、とある療法に出会った。その方が、
「この子に今必要なのは、種から根を生やすこと、幹や葉や、ましてや花や実のことは、そのあとのこと」、といわれた。
根を生やすこと、そこに目線が向いた。
まずは、その方法をためしてほしいと、これまで拒んでいた、お子さんに対峙した。
おそらくその真剣さ、子供さんの地平に立った言葉、「今必要な根を張ること」、
あせりやあきらめを超えた、「いまできること」、
そうした共感力が、回復への礎になっていったのだろう、そう私は感じた。
大変長い病歴を経て、また、医学的には難しい状況を超えて、今、お子さんは結婚し、妊娠し、子育てをされているという。
もちろん、これからの人生で、さまざまなことがある。
でもこの光は、われわれ関係者を、明るく照らし、導いてくれる。

2009年10月18日日曜日

ダライ・ラマ法王 「地球の未来」への対話 仏教と科学との共鳴

  • ダライ・ラマ法王14世(ノーベル平和賞受賞者)
  • 清水 博 (東京大学名誉教授/NPO法人「場の研究所」所長/薬学博士 )
  • 田坂 広志 (多摩大学大学院教授/シンクタンク・ソフィアバンク代表/社会起業家フォーラム代表)
  • 竹村 真一 (文化人類学者/京都造形芸術大学教授/Earth Literacy Program代表)
  • 星野 克美 (多摩大学大学院教授/日本技術者連盟会長/グローバル・マネジメント・アカデミー会長)
  • 企画・モデレーター:尾中 謙文(青山プランニングアーツ代表/認知科学者)

11月1日 拝聴してきます。

2009年10月15日木曜日

病院の待ち合いにて

ちょっとした事で、病院にかかった。
待合は、患者さんであふれていた。
初診の受付から、時間が積み重なっていく。
多くの方が、病を抱えながら、時にうなだれ、時に飽いたように、順番を待つ。
職員も皆必死に働いている。
受付の人も、案内の人も、看護スタッフも。
病院が癒しの場になることは、夢物語だろうか。
もし、いごごちが良いと、医療費が高騰し、病院はパンクするだろうか。
医師や職員は疲弊し、癒しどころではなくなるかもしれない。

昼休みに、田坂広志先生の「風の対話」と、対峙する時間を持てた。
「魂が共鳴する言葉との邂逅を求めて読む」
いただいた言葉が、心に鐘のように鳴り響く。
”あなたが世界であり、世界があなたである。
あなたが癒されるとき、世界もまた癒される”

現実批判を通り越し、感謝の気持ちと、不条理を請け負う覚悟をもって、
午後からの仕事に向かいたい。

2009年9月24日木曜日

abuse の連鎖を食い止める意義ある作業へのまなざし

児童自立支援施設におけるコンサルテーションに関わっているのだが、常といっていいほど、強力な無力感や怒り、悲しみ、割り切りたくなる心、などと向き合わずには要られない。
一方で、非行少年や虐げられた子供たちにかかわる職員かたがたへの、深い尊敬の念と、意義ある志への共感。
微力ながら、注ぎ得るまなざしと心を力として、是非彼らの生まれなおし、生きなおし、育てなおしに寄り添っていただきたい、そんなわずかな使命をもって、コンサルテーションに望むようになっている。
細かな情報はお伝えできないが、多くのこどもたちは、生まれてから穏やかで安心した気持ちなどもてただろうか?
こういう状況で、あちこちの大人たちの中で育ち、ネグレクトの中をサバイバルし、時にDVや情緒的な虐待に、心を麻痺させ、警戒の心で外界を見つめ、衝動性や行動障害を伴う。
彼らを障害だとか、異常だとかと意味づけることに、どんな展望が付与されるのか。
そうした上からの目線や捉え方を変化へと導き、結果としてバリアフリーをナチュラルに指向する、それこそが、「言葉」がもたらすべきこと。
その基盤にある、向き合う苦闘を支援し、向き合っている現実を構築する作業を、私も苦悶しつつ取り組んでいる。

性被害の特殊性と犯罪性は別に論ずべきだが、あまりに隠蔽されてきた事実に、言葉を失う。
そもそも未成熟な彼らが、高度なコミュニケーションである「性」を、いかに扱い、いかに模倣できるのだろうか。
子供へのあらゆる性行動は、すべて虐待であり、悲しいかな、世代間や施設内で連鎖と感染を引き起こす事に、目を瞑ってはいけない。

単なる性教育だけを考すべきではなく、道徳論や常識論で終わってはいけない。
厳しいようだが、それは、周囲の気休めでしか過ぎないかもしれない。
彼らの生き様を共感した上で、彼らが心を開き、彼らが信じる他者として、やっと伝わる言葉、それは言霊。

その礎に、身体的な、生理的な安堵感というべきものが、必然として要請される。
なぜなら、生まれたばかりの動物は、はじめて触れた他者の感触を、一生涯、母のものとして認識する。
棒切れをあてがえば、ふさふさの毛ではなく、棒切れに寄っていくのである。

こうした子供たちに向き合う作業は、決して社会経済的に、数字で報われるものではない。
目に見えない価値、それは人を再生するという、誰にもできない意義ある報酬。
言葉にできない応援の気持ちを灯明として、また地道なコンサルテーションに向かいたい。

2009年9月10日木曜日

「音楽と胎教」をめぐる連想

先日、熱心な研究者の先生方と、胎教における音楽の役割について語り合う機会をいただいた。

子供がおなかにいるときから、母親が声をかけ、口ずさんだ歌。きっと、こどものこころや脳のどこかに、息づいているに違いないという実感や体験。

おなかの中にいるときに歌いかけたメロディー、生まれて成長して、覚えているはずのない歌にあわせて、おどったり、喜んだりする幼児の話。

わらべ歌をうたう、おちちをやる、子供を抱き締める、そうしたごく当たり前の母親の行動が、危機にひんしているという。

胎教どころではない、実態。

とにかく保育所や幼稚園、幼児教育に預けていれば安心?

CDで、良い音楽を聞かせておけば、良い子に育つ?

そんな事態に、素朴な疑問をもち、デジタルによるノイズが脳に悪影響を与える科学的な実証を示そうという、熱意ある研究者の先生方であった。

4日に1人の子供が、虐待で無くなる社会。

子供と自分、もしもの時にどちらを優先するか?こんな問いにさえ、躊躇する親たちがいると、報道は伝える。

ここで、世界子供白書の、一節が、脳裏をよぎる。これを読んだとき、いつまでも、心から離れなかった。

「世界には、胎教にモーツゥアルトとブラームスのどちらを聞かせたら子供の脳の発達によいか、と夫婦で話し合える豊かな社会と、一方で、妊婦や子供たちが銃弾の音に脅かされ、地雷を踏まないように母が乳飲み子を抱えてサバイバルせねばならない多くの紛争地帯がある」

胎教に目を向けること、生の声をかけること、母親が心安らぐ歌を口ずさみ、生まれてくる子を思うこと。

私の子が妻のおなかの中にいるときに、エコー検査に立ち会った。

羊水の中で気持ちよさそうに欠伸する、生まれる前のわが子を目にした。

とても、穏やかな瞬間だった。

おそらく子宮の中は、安心で安全で温かい世界。まるで、世界中に包まれた、ゆらゆらとした海の中。宇宙に浮かぶ地球のよう。その時伝わってくる母親の「声」。

その後訪れる、ダイナミックな脳神経ネットワークの発達や淘汰の中で、きっと記憶(保持貯蔵)されているに違いない。

人は自然を「マザー ネイチャー」とも呼ぶ。

人の根源、宇宙の根源にかかわる、保証感の源、

母の声、音を楽しむ波動。

胎教と音楽をめぐって、いくつかの思いが巡った。

2009年8月26日水曜日

インフルエンザ対策にみる「共感資本」*の在り様

新型インフルエンザが、流行の兆しを見せている。弱毒だとか、感染力は強いとか、予想より死亡率が高いとか、マスの数字だけでは見えない影響に、想像をはせたい。基礎疾患のあるかた、重篤になりやすい乳幼児や高齢者、自ら的確な予防行動がなかなかとりにくい障害をお持ちの方、こうした人々に、何としても蔓延を食い止めたい。

春先、メディアのエキセントリックでエモーショナルな報道に、社会の成熟度の低さを感じたことを、残念だがいなめない。あまりに過大な、また冷静さを欠いた対応は、感染症への対応に、まったく意味をなさないばかりか、負のインパクトをもたらす。社会経済に対する影響、医療費や医療資源への過大な負担、さらに感染者への不合理で全く理解しがたい差別や偏見など。

一方で、ごく当たり前の感染予防行動を、我々健常者はどこまで徹底できるのだろうか。咳エチケット、石鹸での15秒間の手洗い、水周りのない状況での消毒薬の使用、もし体調不良時は外出を控え、仕事や学校をきちんと休み、他の方への感染を極力防ぐ。ごく当たり前の行動以上の、ミラクルな解決策はないが、この指針はお題目でも理想でもない。学校停止の時期にカラオケボックスが流行り、熱があるのに合宿をし、自分がかかる前はマスクをするのに治りかけは面倒ではずす、解熱後2日も感染力はあるため自宅療養すべきところをアルバイトに出かける、どうせ皆かかるのだからタミフルやリレンザを飲めばいい、予防投与をすればいいんじゃないか??こうした危険な風潮まで、聞こえてくる。

基本的には、もしここで感染がひろがらなければ、一人でも少ない基礎疾患のある人、一人でも少ない子供が、命を落としたり、後遺症に苦しまなくても済む、そのための拡大予防の気持ち。自分のためだけではない、その共感性が、一つ一つのちょっとした労力や我慢をする根底に、あるべきだろう。行政がいうから、マニュアルがあるから、するのではない。その姿勢さえあれば、ごく当たり前の常識的行為が、できるはず。それこそが最大かつ最低限の、感染予防のポイントだ。

あわてて高度医療機関に殺到し、重篤かつ複雑な疾患をお持ちの方に、ウイルスをまき散らしてはいけないことは、「共感資本」*が十分な国民であれば、言わずもがなのこと


*「共感資本」については、田坂広志氏の言説に啓発され、引用した。深謝します。(BS Fuji Prime News/目に見えない資本主義)

2009年8月19日水曜日

精神病理学の復古と、新たな診断学の「らせん状」進化に向けて

かつて我々が学んだ、精神病理学。それはやや思弁的で、時に形而上学的であった。
そこには、生物学的視点との二律背反が存在した。時にその矛盾は、権力闘争に発展さえした。

精神病理学は、時代の要請に呼応し、操作主義の盛隆を迎えた。これは、曖昧模糊とした診断疾病論を、より科学的かつ実証的に共有しようとする、善意の試みでもあった。ただし、そこに精神病理学本流との新たな矛盾と葛藤を生んだ。それは、いわば善意のぶつかり合いに近い。
そもそも、外的基準のない複雑系の診断学であるから、精神病理学的記述分析も、それを普遍化しようとする試みの中で、多かれ少なかれ操作化せざるを得ない。

操作診断面接は、結局個々の人間が行なうわけで、ロボットでない限り、目の前のケースの内面に沿わないわけがない。こうして2者は、すごく近似してくる。まるで2大政党制のようだ。

重要なのは、こうした流れが止揚されうる、という視点だろう。ソフィアバンク代表田坂広志氏の、心ある未来予見にしたがって、らせん状の復古と進化*に倣ってみよう。おそらく、操作診断はもう一度病理学の深みを要請し、そこに当然のことながら21世紀の神経科学の進歩が基盤としての妥当性を与えよう。
世界的脱パラダイムを経つつある中で、縦断的なライフサイクルの視点が注目され、ここには発達の軸が当然包含されてくるだろう。そして、もうひとつ回復力(人間力)ともいうべき要素を考慮する必要があると、思う。これは、同じような虐げられた境遇で、同じような付与された知性を持ち、同じように周囲が関与したにもかかわらず、その行動・心理上病理が持続したり、しなかったりと、成長への様相が異なる、という子供たちに接して、気付いたことでもある。

おそらくこれは、関係性の力(内外の関係性を開き、作り、導く素因と能力)に源をもつのではないか?これは、リハビリテーションへの反応性や、新しいパラダイムへの親和性、といったことにも繋がる気がしている。そして、脳科学的には、前頭前野の育みに基盤すると夢想する。

この言説は、中田力氏(新潟大学統合脳機能センター長)、田坂広志氏(ソフィアバンク代表)、両氏の著作を含めた知的活動に学び、啓発された。心より深く感謝する。*:「使える弁証法」など参照

精神医学にとっての「治る」「回復」とはなにか?

複雑系の精神科アセスメント、それはアウトカムの変化にかかわる様々な内外の要因を、非線形回帰方程式として取り込むことに似る。

それは、うつ病における抑うつ得点の変化や、拒食症における体重の増加、統合失調症の陽性陰性症状の低下で、その事例が「治る」「回復する」と言い切れない事実を見れば、あなたにも納得がいくはずだ。

職場を休んでいる患者さんが、うつ症状が改善しても、職場復帰になかなかふみきれない。ここに関与する要因は、病状だけではないだろう。同僚への負い目、職場の受け入れ態勢、はたまた近所からの回避、そもそも自分の仕事への思いなど。
拒食症の中学生が、身体管理のため入院した。たしかに、病識はきちんとしていないが、病棟での行動療法で体重は増える。ただし、自立の葛藤、完璧主義の弊害といった、彼女の病理の一面がリヴィ-ルされた段階に過ぎない。いつでも、拒食や強迫などの適応障害状態に陥る可能性はある。縦断的な成長と経験の変数が、彼女に柔軟さをもたらす。それは、彼女にとっての治ることで、周りのだれかにとってのアウトカムとは別のものだ。
そもそも慢性精神科病棟の、おだやかな患者さんたち、この方々が、リアルな社会とある意味切り離されつづけてきたことは、人間社会、政治、時代という複雑系に目を向けざるを得ない事実だ。

いわばこの方程式(アセスメント定式)に含まれうる変数は、個人内の人格、対処行動のみならず、関係性の指標たるシステムの機能性や、社会経済状況も含まれる。ライフサイクルという縦断的素因も、発達の指標との偏相関を含めてアウトカムに寄与するだろう。
そして、治療者、支援者たるあなたも、すでにそのシステムに包含されていることは、量子論を持って明らかだ。客観的な観察など、あり得ない。どう認識するかは、転移や、よって立つ臨床理論(フロイト?認知理論?内分泌系?神経発達仮説?はたまた遺伝子?)によっても異なる。医療保険制度、地域の状況によって、アウトカムへの影響は変わってこよう。

重要なのは、係数の大きなプライマリーの変数をきちんととらえておくこと、これは生命保持や身体管理、常識的家族指導、薬物療法の的確な使用、職場への助言、などに例えられる。現段階のエビデンスは、決してこの方程式を解くものではない。
ただし、われわれが事例と共有する対話は、唯一無二の現実であり、そこから事例の過去と現在、そして未来が意味づけられる。これはナラティブに、アプリオリに構成されていくものである。

この言説は、中田力氏(新潟大学統合脳機能センター長)、田坂広志氏(ソフィアバンク代表)、両氏の著作を含めた知的活動に学び、啓発された。心より深く感謝する。