2009年9月24日木曜日

abuse の連鎖を食い止める意義ある作業へのまなざし

児童自立支援施設におけるコンサルテーションに関わっているのだが、常といっていいほど、強力な無力感や怒り、悲しみ、割り切りたくなる心、などと向き合わずには要られない。
一方で、非行少年や虐げられた子供たちにかかわる職員かたがたへの、深い尊敬の念と、意義ある志への共感。
微力ながら、注ぎ得るまなざしと心を力として、是非彼らの生まれなおし、生きなおし、育てなおしに寄り添っていただきたい、そんなわずかな使命をもって、コンサルテーションに望むようになっている。
細かな情報はお伝えできないが、多くのこどもたちは、生まれてから穏やかで安心した気持ちなどもてただろうか?
こういう状況で、あちこちの大人たちの中で育ち、ネグレクトの中をサバイバルし、時にDVや情緒的な虐待に、心を麻痺させ、警戒の心で外界を見つめ、衝動性や行動障害を伴う。
彼らを障害だとか、異常だとかと意味づけることに、どんな展望が付与されるのか。
そうした上からの目線や捉え方を変化へと導き、結果としてバリアフリーをナチュラルに指向する、それこそが、「言葉」がもたらすべきこと。
その基盤にある、向き合う苦闘を支援し、向き合っている現実を構築する作業を、私も苦悶しつつ取り組んでいる。

性被害の特殊性と犯罪性は別に論ずべきだが、あまりに隠蔽されてきた事実に、言葉を失う。
そもそも未成熟な彼らが、高度なコミュニケーションである「性」を、いかに扱い、いかに模倣できるのだろうか。
子供へのあらゆる性行動は、すべて虐待であり、悲しいかな、世代間や施設内で連鎖と感染を引き起こす事に、目を瞑ってはいけない。

単なる性教育だけを考すべきではなく、道徳論や常識論で終わってはいけない。
厳しいようだが、それは、周囲の気休めでしか過ぎないかもしれない。
彼らの生き様を共感した上で、彼らが心を開き、彼らが信じる他者として、やっと伝わる言葉、それは言霊。

その礎に、身体的な、生理的な安堵感というべきものが、必然として要請される。
なぜなら、生まれたばかりの動物は、はじめて触れた他者の感触を、一生涯、母のものとして認識する。
棒切れをあてがえば、ふさふさの毛ではなく、棒切れに寄っていくのである。

こうした子供たちに向き合う作業は、決して社会経済的に、数字で報われるものではない。
目に見えない価値、それは人を再生するという、誰にもできない意義ある報酬。
言葉にできない応援の気持ちを灯明として、また地道なコンサルテーションに向かいたい。

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