2009年11月27日金曜日

2003年末の日記から、ふたたび

私が豪留学から帰国した2003年は、イラク戦争が勃発し、人々がテロの危険におびえていた。
世界が分断に向かう、まっただなかにあった。
その時の日記に、こう記してある。

しばらく、日本を離れている。外から見ると、祖国はやたらと世相が悪い。海外チャンネルから聞こえてくるニュースは、天変地異と猟奇的犯罪ばかりのような感覚に陥った。
日本ばかりでなく周りを見渡すと、どうやら世界は分断に向かっているようである。中途半端な動きでは収まらない、システム全体の変化は必然のようだ。
而して日々の営みは、日常の名のごとく、同じような関わり合いの繰り返しで成立している。結局、人間は人と交わることでしか存在し得ない。内的な自我を概念化したこと自体、他者なしでは自己を規定できないことを自明にしている。
生きている現実は、人々が紡ぎだす音楽のようだ。ベルリンフィルの指揮者ラトルは、音楽は、「決して一人ぼっちではない」というコミュニケーションである、と述べている。コミュニケーションは「差異」を伝え合う様式であると、心理学者ベイトソンは定義する。
東と西、白と黒、男と女、それらの差異こそが伝え合うものであり、永遠に奏でられ続けられる音楽なのだろう。そこには、当然いくばくかの物語が生まれる。
世界が、そうした差異の意味を子供たちに伝え、それらの意義を奏でられたら、とひそかに願っている。

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