2010年8月11日水曜日

こころとからだ

ふと日常で出会った、ちょっと残念なやり取り

こころとからだの相克を、如実に表す出来事

そのエピソードから、医学の道を考える



検査で異常がでない、もしくは訴えほどに所見が乏しい、

すなわち、「こころの病」、

そう速断されたい気持ちはわかるが、、、



大人はともかくも、こどもでは特に、こころのサインが体で表れやすい

かといって、それをただちにこころのせいと、

今、我々のもちうる検査で、いいきれるだろうか?

微妙なミクロレベルの組織変化や機能異常、

それをこころのせい、いや、からだのせいと決めることに、

意味があるのだろうか?

そんなことが神業のように、わかるだろうか?



あえて、こころの要因が大きいとしよう

としても、子供たちがその意味を理解し、それを解決する心持に至るには、なかなか険しいステップが待っている

たとえば、複雑で慢性的な体の病で、何度も入院をし、

きつい治療を受けてきた子供たち、

彼女や彼らが、いろいろな体の異変に対し、時に敏感になったり、

不安や恐怖を感じたり、予想以上の苦悩を表わすことは、容易に想像できる



大人ではどうか?

同じ腰痛であっても、レントゲン写真に異常がないからといって、

検査には出ない微細な筋肉や神経の異変を、ただちに否定されては、

途方に暮れるだろう


21世紀初頭の検査が万能で、体の変化すべてを示しうるとは、思えない

もちろん、過度の憂慮に対し、きちんとした説明や見立てが語られてよい

その際、これまでの経過や、その時々の状況、その人の性格、

プロと呼ばれる臨床家は、そうしたことに、配慮されるのだろう



簡潔に心身2言論で片づけられない生命という存在、

その複雑さに想像をはせ、語る言葉がこのケースにどう受け取られるか、

それを慮った上で伝えられる言説こそ、

真のプロフェッショナルの技



たとえば、家族の複雑な背景や歴史があったとしよう

同じ所見でも、違った様相で伝わる

もしかしたら、家族自体が支えられるために、病が維持される場合もある

ただちに、心の問題ですよ!と説明することの、効と罪

共感したうえで、あえて洞察を待つ姿勢、

それがプロフェッショナルの覚悟



もし、医者が平均より若干でも高い給料をもらい(実際は?だが)、

社会である程度尊敬される職業ならば(これもなかなかに厳しいか?)、

教科書的博識やデータをたくさんもち、

それを忠実に則って、その通り間違いなく伝えることそのものに、

あまり専門性はない


そうした基本的知識を十分に備え、要所で伝え、時に伝えずに、見守る

ひとりひとりの人生を見つめたうえで、出す処方や手技、

そして言葉、

それを極める専門性こにこそ、医師として目指すべき道があるのではないか?



さみしいエピソードから、厳しい道を、学んだ

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