2010年3月1日月曜日

『坂戸 薫  遺稿集』への寄稿から --- 今、ふたたび

気分障害の診断、パーソナリティ、養育体験、そして5HTTに関して、世界的に優れた心理社会生物学的研究を行った坂戸先生が急逝したのは、3年前の3月であった。



たまたま古き絵葉書を整理していたら、彼がドイツ留学中に送ってくれた、クリスマスカードを見つけた。
「そろそろ爆発するつもりです」

と、彼らしい力強い大きな字で、書いてあった。



養育体験とうつ病の治療反応性や人格との関連を丹念に調査され、
そのむこうには、生物学的な相互連関をも射程に入れていた。
意気揚々と熊本に向かわれた矢先の、訃報であった。


奇しくも、群馬大精神科の成田耕介氏が、MRIを用いた脳構造解析と養育体験との連関を、世界で初めて報告する(Relationship of Parental Bonding Styles with Gray Matter Volume of the Dorsolateral Prefrontal Cortex in Young Adults. Progress in Neuro-Psychopharmacology & Biological Psychiatry, in press)。

天国で、喜び驚きつつも、競争心を燃やしておられるだろう。


やっと彼のことを、振り返れるようになった気がする。
当時思いつくまま書き連ねた文章を、彼を偲んで参照する。

坂戸薫先生の思い出(2007)

月曜日の朝に、奥様から坂戸先生の訃報をお電話でいただきました。そのとき、「いったいなにが、どうしたのか?」、すぐには理解できませんでした。奥様に同じことをくりかえし問いかけてしまい、大変な状況の時に、今考えるととても申し訳なく思います。
新潟大学で坂戸先生と苦楽をともにしたフェローの一人として、私が思い出すいくつかの記憶の断片やエピソードをご紹介し、氏を偲びたいと思います。

私は坂戸先生よりも入局年度が2年下になりますので、直接仕事をご一緒するようになったのは、私が県立病院研修から大学に戻った平成5年からです。当時佐藤哲哉先生が新潟市民病院を出られ、坂戸先生、川嶋義章先生と私で、精神科非常勤外来を担当いたしました。総合病院の精神科を本格的に経験するのは初めてで、様々不安がありました。坂戸先生からは総合病院特有の気分障害や不安障害などの診断評価や治療的対応について、手取り足取り面倒見てもらいました。市民病院をフィールドにし、佐藤哲哉先生の築かれた評価システムを修練しつつ、うつ病の評価、養育体験、人格などについて、実証的データを蓄積していきました。同時に、臨床研究というものの哲学と基礎を、佐藤先生、坂戸先生から叩き込まれました。この時期に、論文の読み方、書き方をはじめ、翻訳なども泊り込みで厳しい指導を受けました。坂戸先生は、一度心を許すフェローになると、本当に親身に、熱心に教えてくれます。でも、彼の価値観にあわず嫌った相手には、突き放したような厳しさときつい態度を示す強烈さを、それぞれ持ち合わせていました。これも彼の彼らしいところでした。お二人から教示されたことは、「よい研究をすれば世界で必ずきちんと評価される」「小手先の方法でなく、臨床研究の王道を目指せ」など、私にとっていまだテーマとなっている課題です。同時に、結果を出すことのうれしさ、研究デザインの大切さ、結果を治療やケアに生かすための道筋、周囲との摩擦や挫折、なども経験しました。数年して我々の研究が雑誌に発表されることが多くなり、上を目指す向上心や、さらによいものを作る野心も、お二人からいただきました。私も坂戸先生を模倣して、ストレスコーピングや評価尺度の研究を論文発表しましたが、統計解析手法、英文雑誌への投稿の仕方や返答など、ほとんどを彼から教えてもらいました。私の今があるのは、まずはお二人のおかげです。心底感謝しております。ちなみに、坂戸先生は最後まで、「佐藤哲哉グループ」を誰よりも愛していたと思います。

さて、坂戸先生はいろいろと誤解されることもありましたが、それは氏の毒舌によるところが大きいかもしれません。特に精神療法についてはしばしば諫言されていましたが、身近にいるものとしては若干屈折した印象も受けました。というのも隣で診察を聞いていると、正統な精神療法をされていることが多く、このことは彼の精神療法批判を聞きなれている方々にはあまり知られていない事実ではないでしょうか。病理の重い患者さんについても、「○×さんはしょうもないなー」「クラスターBはどうにもならんなー」などと、口ではあきらめたようなぼやきをおっしゃるのですが、実はきちんと面倒見ていて、彼特有の「言葉」と「態度」の違いが現れます。本当は優しさや一生懸命さがあるのに、照れ隠しと斜に構えたきつい言い方をしてしまう、それにより周囲からずいぶんと思い違いされていたことがあったかもしれません。しかし、そんなこともあまり気にせず、わが道を行くタイプの坂戸先生ではありました。
懐かしく楽しい思い出は、研究室の集まりでしょうか。平成7年ごろより第2研究室は、坂戸先生室長に、川嶋先生、私などが主なメンバーとなり、その年度に在籍した若手が加わり、折に触れて食事会(のみかい)を開きました。新潟の豊かな食を堪能し、精神医学議論に花を咲かせ、世界に向けた野心を語り会いました。若手には、佐藤哲哉グループの意気込みを、熱くかつ厳しく説いていました。坂戸先生は得意のプログレッシブロックを歌ったり、皆で夜の街に繰り出したり、かけがえのない輝きとほろ苦さの時代でした。

職場で彼と一緒の時間が多かったので、つまらない世間話もしました。私はどちらかというと調子に乗りやすく、またへこみやすいほうなので、ついつい先輩に愚痴をこぼしたりしておりました。平成10年ごろですが、当時は公私共苦境に置かれていたこともあって、こぼすことに事欠きませんでした。坂戸先生は、「自分はあんまりイライラしたり、気分に波はないなー。へっへっー」と笑っていました。たしかに、へこたれないというか、一貫したスタンスで仕事をしていた姿がよみがえります。後日談ですが、奥様と昔話をしていて、「家ではいろいろとあたったり、怒ったりすることもあったんですよ」とお聞きして、意外な感じでした。よほどのことでないと、私の前で声を荒げたりしませんでした。
ちなみに坂戸先生が結婚したときは、そんなそぶりもなかったので、とても驚きました。なにかにつけて「うちの奥さんはこう言ってたよ」と引き合いに出していましたから、随分と信じ頼っていたのでしょう(奥様はご存知ないかもしれません)。Hちゃんが生まれて、とても幸せそうでした。彼がドイツに留学中、私はすでに新潟を離れていましたが、時々国際電話が来ました。Hちゃんがあちらの幼稚園にどんどん慣れていることを、うれしそうに話していました。「それにくらべ、大人がドイツ語をこなすのは大変だ!」、などの苦労話や異文化談義を聞きつつ、ハイデルベルグでの体験は私にはうらやましい限りでした。

彼が視力に障害を抱え、苦労していたことは皆様もご存知でしょう。おそらく人に言えない悔しさや不安を感じていたはずです。しかし、私にそのことでくよくよ言うことはほとんどありませんでした。やはりいつもポジティブで、負けず嫌いで、前向きでした。でも、奥様やご家族には、本音のつらさをむけられていたのかもしれませんが。

坂戸先生の御通夜で、北村俊則先生がおくられた弔辞に、彼の生き様、業績、人柄などが、本当に的確に語られています。彼の目指してきた仕事が、人心の発達理解や健康向上に寄与していくだろう点について、あそこまできちんと評価してくださった上司に恵まれたことは、フェローの一人として心よりうれしく思いました。残された私たちは、彼の志を少しでも引き継いで、ちゃんとした仕事をしていくしかなかろう、と今は思っています。心より、坂戸薫先生のご冥福と、奥様、娘さんのご健康をお祈りします。

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