2011年1月28日金曜日

つたわらないむなしさ

発達障害に関する講演などで、コミュニケーションが伝わらないつらさや、すれ違いの苦しさについて語る専門家は少なくなかろう。
熱心に話しても、かなしいかな、難しいわけのわからないメンタルの問題、専門家や医者がどうにかせい、といったオーディエンスの反応もある。
理解や共感、頭ではわかるが、実際どうするの?
そんな個別指導など無理、第一危ないことが起きたら、責任の所在は?
といった、社会防衛的な意見も浴びせられる。

ちなみに、拝聴した放送大学の人格心理学講義からの受け売りだが、
ナチの基本哲学は、人格の向上、よりよい人間性、菜食主義など自然とともに過ごす、健全な娯楽、などだったそうだ。
それが昂じ、優性主義やジェノサイドに結び付いたという。
「天国への道は悪意で敷き詰められている」、の真逆か?
大量虐殺は、決して狂気ではなく、強すぎる理性から導かれた、という指摘であった。

前段に戻ると、「すくなからぬオーディエンス」が我々に求めている「本音」、もしかしたら、いや、やはり、、
そうした問題、そちらで引き受けてくれ、トラブルは引き取ってくれ、治らないならやめるよう説得くしてくれ、はたまた不適格の鈴をかけてくれ、、、なのかも、、、しれないなー。
しかし、20世紀におきた、排除の理論を繰り返してはなるまい。

ある講演の後、司会者からこんな感想を面前で浴びせられた。
「発達障害、聞けば聞くほど余計わからなくなりました」
んんん、ここまでダイレクト、素直に言われると、返す言葉がない。
わかったようなことを言うよりも、良心的かもしれないが。

ここまであからさまな公の批判をうけたのは初めてで、ややショック、、

自分なりに尽力してきたつもりなのだが、
日ごろあまりよい感情を持っていない場所だっただけに、
無意識にそんなニュアンスが伝わったのかもしれない。
自らの無力と未熟さを、痛感させられた。

しばし、反省。

2011年1月26日水曜日

過去コラムより再び-問題は、はたして問題なのだろうか?(2005)

「問題」ははたして問題なのだろうか?
‐G8と長崎の児童殺害事件から、「解決志向」を再認する

 アメリカ南部・ジョージア州は、すでに夏の気候だろう。リゾートの島シーアイランドで、先進国首脳会議G8が開かれた。アメリカは独仏露と歩みより、というよりも妥協をして、イラクへの多国籍軍としての派遣と、統治に向けた新たな枠組みを模索している。
 そもそもアメリカの一国主義、覇権主義が今回の事態を招いた一つの要因であることは、衆目の一致するところであろう。アメリカ型民主主義、自由主義が、健康で正義であり、イラクを始めとするイスラム社会などは、病理や異常を抱えている、という問題志向的な視点が根本にあるように思えてならない。さらには古いヨーロッパやアジアの伝統しきたり、リベラルな主張など、合い入れないものは、わからない、わからないものは、悪い、といった、短絡的志向にアメリカ国民が陥っている(もしくは、陥っていた)、フランスワインをボイコットした行為などにも、良く見て取れる。
 これはアメリカ人だけのことではない。ふりかえれば、我々の日常の考え方や視点も、問題となる点を見つけその原因を探り、それを何とか除去しようとするところが多々ある。そうした基本的な点は、国は違えども結構共通している。そうした考えの向こうには、必ず正しいあり方、健康な姿、といった、欠点なき像を見据えていることが多い。なんだか、キリスト教の天国、仏教のあの世、みたいなものを想像できるかもしれない。
 さて、現実にはたして欠点や問題や病理のない人間、組織、社会、世界はあるのだろうか。アメリカ社会は、たしかに夢と希望にあふれ、物と豊かさと、優越感に満ちている。しかし、まさしく今のアメリカに生きるマイケルムーアが風刺しているように、銃や犯罪、麻薬、人種差別、貧富の格差、などなど、「問題」や「病理」も併存している。
 医学も、病気の原因、病理を見つけ、それを除去することで発展してきたし、実際そうした教育を行っている。手術や薬で病気の元をたつ、というわけだ。ただし、病気は決して悪ばかりでないのは、風邪をひいたときの熱を考えれば明らかだ。外からの異物を排除する体の免疫力が、結果として熱を生み出している。不快ではあるが、これは大切なしるしでもある。事実、今の風邪の治療は、あまり解熱剤を用いない。
 問題志向により、医学も社会も国も覇権主義に陥りやすい。こちら側が「正しい」と判断することを、あちらが側から見ても同じに見えると思って、おしつけてしまう。熱は平熱の人間を基準にすると問題だが、力強い免疫サインの基準とすると大変良い反応性、ということになる。一方、解決志向では相手のやりかたや工夫を尊重する。そもそもこちらには問題に見えても、あちらではそれが解決になっている、という視点で臨む。構成主義(コンストラクティビズム)*といわれる立場では、相手をまず信頼するし、相手からもきっと信頼される。
 最近児童による凄惨な事件が起きた。あくまで報道された情報を信じてそれに頼るなら、加害児童は「いいこ」「普通の子」「誰にも良く挨拶する子」「明るい活発な子」で、「問題のない子」であったという。児童はそもそも親や周囲の保護が必要で、だから当然刑事責任も問われない。それは、子供は未熟で、まだ発達の途上にあり、大人でないからである。いいかえると子供は「問題」をおこすから子供であり、「問題」があってこそ子供なのである。生まれたとたん訳知りの顔で大人顔負けの人生訓を持っていたなら、これこそ奇怪で狂態であろう。小学生が誰にでも明るく気を使って、迷惑をかけない、それは果たして問題がないことなのだろうか。この時期は問題があってこその存在で、それは実は「問題」ではなく、もしかしたら子供らしさそのものであり、発達や成長の糧といえないだろうか。外に起こせない問題を、内に起こしていたら?これはまさしく悲劇を生む。
 清濁併せ持つという言葉があるが、我々生態は細菌やウイルスとまさしく同居しており、全くの無菌環境では抵抗力がなくなってしまう。純血のペットは病気にかかりやすく、雑種のほうが力強いことは良く知られている。そもそも日本國は、奈良や平安時代に様々な異文化と交流を重ね、日本独自の文化の一時代が作られた。一方、鎖国時代には社会は安定したが、日本が進歩し花開いたとはいいがたい部分がある。かのアメリカさえも、様々な人種が力を合わせることで、今のパワーを維持している。
 細胞も、体も、家族も、地域も、国も、社会も、そして世界も、さまざまな価値観、人種、文化、考え、そして清濁併せ持つことで、いわゆる健全に機能するのだろう。そう考えると、やはり問題は解決のみなもと、大事なヒントだとつくづく思うのである。
 だからこそ、子供達が問題をおそれず大人に顕してほしいし、それをびくびくせず、過剰に目くじら立てず、向き合える大人でありたい。でも正しいことは正しい、と力強く言い合える社会に戻ってほしいと、つかれた中年は祈るのである。
(2005)

社会構築主義(社会的構築主義、社会構成主義、social constructionism or social constructivism):現実、つまり現実の社会現象や、社会に存在する事実や実態、意味とは、すべて人々の頭の中(感情や意識の中で)作り上げられたものであり、それを離れては存在しないと考える、社会学の一つの立場である。社会的構築物とは、それを受け容れている人々にとっては自然で明白なものに思えるが、実際には特定の文化や社会で人工的に造られたにすぎない観念となる。

2011年1月19日水曜日

過去コラムよりふたたび-冷凍催眠にみる未来像(2004)

冷凍睡眠にみる未来像‐バニラスカイと夏の扉

最近、バニラスカイという映画を衛生放送で見た。トム・クルーズとペネロペ・クルスが競演していることで、ゴシップ的にも有名になったアメリカ映画であるが、オリジナルはスペイン映画だそうだ。標題は、バニラ色の心地よい空、まるで印象派の絵のような風景を意味するらしい。映画の最後で、まさしく、やわらかな夕焼けとして描かれている。しかしその内容は、夢と現実が入り混じり、かなり手の込んだエキセントリックな作りになっている。しかし何の事はない、主題は1950年代のハインラインの名作、「夏の扉」*と酷似している。
科学の進歩で、人は不老不利を目指す。その手段の一つは、冷凍睡眠である。今でいう保険会社のような冷凍睡眠会社が、夢のような未来を保障する。夏の扉では、自ら様々な進歩的な発明を生きがいとする科学者が、恋人と友人に裏切られ、会社と発明をのっとられ、失意の中相猫と冷凍睡眠に入る。目がさめた世界は、ハインラインが執筆した時代の50年後、すなわち我々にとっての今、現代である。そこには、たとえば風邪は存在しない。かれはここで愛する唯一の身内である姪の危機を知り、なんとか過去に戻ろうとする。そこで登場するのはタイムマシンであるが、ここからは本題にそれるので、ぜひこの名著にあたってほしい。
さてバニラスカイに話を戻そう。この映画でも、親から会社を継いだ遊び人ヤッピーの2世が、女性がらみのトラブルで大怪我をし、失意のどん底で冷凍保存に契約する。描かれるのは実は多くが冷凍中の夢の中の出来事、すなわち脳の中で起こっているバーチャルリアリティである。しかし観客はそれを知らぬまま、夢と現実の狭間で主人公の感じる当惑を共有する。最終的にトムクルーズ演じる主人公は、150年後の現実に生きることを選ぶが、はたして150年後がどうなっているか、それは一切現実としては描かれていない。ここはハインラインの足元に及ばない。いずれにせよ、冷凍保存で不老不死の未来に行こう、という趣旨は同じなのだ。
ハインラインの描く未来には、様々なテクノロジーの進歩が具体的に記述されている。既に実現化されている便利な機械、例えば携帯電話やインターネットなどがあるし、彼が描いた以上の進歩も実際は存在する。しかし、一方で彼の描いた未来では、テクノロジーがより良い人間社会に貢献している。こうした彼の科学に対する肯定的な主張が、夏の扉の根底には流れている。
さて我々は、彼の示した科学と人間のより良い関係、に近づいているのだろうか?くしくも彼が夏の扉で描いた近未来である現在、そこに生きる映像作家によって描かれた同様のテーマは、バニラスカイに見て取れることは既に述べたとおりである。ここに描かれる主人公を取り巻く現代は、物質主義、快楽主義に満ちており、事故後ひどい怪我を顔や体に負った彼を形成外科的進歩が外見上、そして機能的にも救うのである。しかし、心はいつも見にくい自分におびえたままである。彼の潜在意識には、理想化された親子像である「アラバマ物語」が存在し、一回あっただけの女性、ペネロペを理想化する。まるで、幼児期の心理のようだ。
科学が進歩しても、それを扱う人間はそれなりに進化しているのだろうか。むしろ精神構造は退行している様にさえ感じる。高速F1カーを、幼稚園児が運転する絵を想像すると、未来はハインラインのように楽観覗できない。
戦争の手法や技術は進歩し、アメリカ軍はかつてない民営化された戦争をテクノロジーの進歩で成し遂げた。しかし、彼らにしてみれば時代遅れともいえる武器で立ち向かってくるイラク民兵に、随分と苦しんでいるようだ。ちなみに、アメリカ人であるハインラインは戦争のない未来を想像していたように思う。このまま現代人が精神的に退廃を進めるならば、冷凍保存や冷凍睡眠が実現化して、会社の冷凍庫で眠っている間に、実は地獄に落ちているようなことになるかもしれない。やはり今、これからを、生き抜いて行く事が、より良い未来への近道なのかもしれない。

*夏の扉:原題"The Door into Summer" は、アメリカのSF作家ロバート・A・ハインラインが1956年に発表した、タイムトラベルを扱ったSF小説。自分自身との遭遇、未来からのタイムトラベルによる過去の変更、タイムトラベルを使って「将来の出来事」を変えることが倫理的かどうか、などを扱った。また、「猫SF(or 猫小説)」の代表作としても知られる。

(2004)

2011年1月12日水曜日

過去コラムより、ふたたび―世相について

世相について (2004)

最近の日本は、世相が悪い。経済は低迷し、奇妙な犯罪も多く、人々のモラルも崩れている。いわば、世知辛い世の中になったわけである。
そもそも相とは、顔つきや姿、発する言葉の調子に、内面がにじみ出たあり様を意味する。目に見えるもの、ときに見えない内面も含め、いわゆる行動全般を指すのである。精神科医は、患者の相を拝見し、病気や問題を探る。今のところ、血液検査や画像検査では明らかな所見が見つからないだけに、相を見ることは大変重要な手段である。口では「大丈夫、何ともない」という場合でも、患者の相を診ることで、隠れている問題を予測し、それに基づいて援助を行う。
科学的にいうと、相とは人間個人の生体のしくみや働きが反映されたものである。大きな欠陥や異常がある場合、大変な様子は相にあらわれる。例えば意識障害などの昏睡や、苦痛、苦悶などである。生体を構成する臓器や細胞、脳のネットワークが機能不全に陥ると、かすかなものから明らかなものまで相に変化が出る。たとえば、顔色が悪くなる、落ち込んだ様子になる、いらいら落ち着かない、妙にはしゃいでいる、などの変化である。ある相が継続していて、その人に特有のサインになっている場合もあれば、ある時点にだけ生じる場合もある。
往々にして、家族の相を見ることも重要である。家族のそれぞれの関係性が、家族の相として特徴づけられる。コミュニケーションが活発な相、それぞれが関わらない相、強い依存で結ばれている相、などなど。相は、個人を反映し、全体を写す鏡である。
さて、日本の世相に話を戻そう。世相は外から見ると、そのあり様がよくわかる。私がシドニーに滞在中、日本や世界の世相を捉えるのに役だったのは、インターネットの情報とSBS*のワールドニュースである。そもそも日本の雑誌やテレビは、日常生活をしている範囲ではなかなか簡単に手に入らない。日本食のお店で少し古い雑誌を見たり、日本のビデオ店で本やビデオを借りることはできるが、そうそう近くにあるわけでないし、たまに利用する程度である。タイムリーな情報をえるためには、ケーブルテレビなどを契約する必要がある。お金もないので、一般のテレビ番組が最もリソースとして卑近である。とはいっても、扱うニュースは、日本と随分違うものである。世界の相は、見聞きする場所によって随分と趣を変える。イラク戦争など大きな事件は同様に扱うが、日本にブッシュ大統領が来日したこと、若者の猟奇的な殺人事件などは、ニュースにならない。一方で、北海道の地震が映像で流されたり、道頓堀に飛び込むタイガースファンが映ったりする。
一般の放送局ではヘッドラインに乗らないものも、SBS*という多国語放送は、ちゃんと伝えてくれる。なんといってもNHKの7時のニュースが1日遅れで見られるのである(朝の5時半であるが)。ワールドニュースは、アフリカや南米、アジア、当然ヨーロッパの出来事を網羅して扱う。世界の各都市の天気さえも最後に流れる。これは世界の世相をつかむのに、とても役にたった。
日本の閉塞感と社会にたまったストレスの高さを良く示してくれたのが、ネットの情報である。毎日のように子供の殺人や、連続殺人がながれ、とおもうと、あざらしの挙動に一喜一憂する姿は、とても異様であった。景気が悪いといいつつ、人の波、光の波、あふれるもの、これはオーストラリ人にとって、まさしく理解に遠い異国の出来事と報道される。シドニーの人口や人の流れが多いといっても、比べ物にならないのである。そうして日本の人々は従順にやり方を堅持し、文句は言いつつも、変わろうとする気配はない。事実自民党は政権を手放さない(執筆時)。
オーストラリアは若い国で、多民族国家でもある。日本のように便利でないところや、組合が強くて変化に対応できてない点もある。なにごとも個人責任だから、行政は痛いとろに手が届くというわけでなし、お店も客にこびたりしない。しかしながら、基本的な人間同士のコミュニケーションというか、意思刺激の伝達はきちんと行われ、納得のいくまで討議される。それに対するフィードバック機構もあり、溜め込んで文句を言わず、その場で主張をする必要がある。これはいわば自動ドアでなく、人が挨拶しながらドアを開け閉めすることに近い。
外から見た日本の相は、言わば適応障害を起こしているのかもしれない。さまざまなシステムが、うまく機能しない。でも、今までのやり方を変えれない。ちょこちょこと問題が起こるが、結局は柔軟な変化ができない。内外の変化は必然であるが、適応できずに、血行にあたる経済は滞り、免疫にあたる危機管理もごてごてで、医療や教育といった高次機能もにっちもさっちも行かない。たまった主張や文句は適切に処理されず、さまざまな身体心理的症状のような、奇怪な世相として世に現れる。
他の社会や国々は、決してパラダイスでもないし、ばら色でもない。しかし、変化に対する対応や、問題に対する対処の柔軟性、システムの風通しの良さ、を持ち合わせているところもあり、今そのように変わりつつあるところは、勢いがいい。個々の構成組織である、個人もまた、血行が良く(金回りが良く)、代謝も良く(金使いも良く)、免疫は機能し、伝達もうまく行く。これにより、なにより大脳の前頭葉が活躍する。
人が人足る所以は、大きな大脳皮質、それも前頭葉前部の発達にあるという。天才科学者中田力氏*は、前頭葉のはたらきを持つ人間を「理性を持ち、感情を押さえ、他人を敬い、やさしさを持ち、決断力に富んだ、責任感のある、思考を持つ哺乳類」と定義している。人の立場に立って考えられること、この働きは相を診ることにつながる。こうした人が支える社会は、世相がよいのである。


*SBS;スペシャル・ブロードキャスティング・サービス(Special Broadcasting Service)、オーストラリアの公共放送局。オーストラリアは移民国家として発展し、国語である英語圏以外の先住民や移民が多い。本局は、英語以外の多言語放送が全体の半数を占めている。財源は政府交付金を主な収入としているが、コマーシャルが認められている。1975年にラジオ放送を開始。テレビは1980年開始、2002年にはデジタル放送で2つのテレビチャンネルを追加した。

中田 力 教授:新潟大学統合脳機能解析センター長、カルフォルニア大学デイビス校神経学教授
研究室ホームページhttp://coe.bri.niigata-u.ac.jp/index.php

2011年1月2日日曜日

Happy New Year 2011

恭賀新年

今年は、アウトプットとインプットのバランスを見直し、

海外や異なる世界への目線をとりもどそうと思っています

生活もよりシンプルを目指したい、そう思っています

ちんみに、干支というのは、

人生の区切りを見つめる、良い機会ですね